さるすべり
大空に向かってすいすい伸びた 百日紅の枝先に、真っ白な小花が咲きほこっている。
ち ち
義父の逝った八月一日。その時も百日紅の花が満開だった。義父の柩は、白い花の横を静かに通り過ぎていった。かけつけた大勢の知人や同僚、教え子たちに見送られながら。
あれから、二十一度めの夏。次第に義父の思い出も薄れかけていた折しも、義父の姿を彷彿とさせる出来事が、相次いで起こった。
「久しぶりに、お父様のお墓参りをさせていただきたいのですが…。」義父の元同僚であるH先生から突然の電話を受けたのは、夏の初めのことだった。久々に耳にする義父の思い出話。国立のF中学校での晩年の姿は、義父の語っていたことと鮮明に重なる部分があり、懐かしさがこみあげた。H先生は、花束に添えて、一枚のコピーをさし出した。それは、F中学校の創立五十周年記念誌に掲載された、ある卒業生の文章だった。現在、国立大学で教鞭をとっているY教授は、義父の社会科の授業で政治経済への目を開かれたことが、今の仕事の出発点となっている、と記している。当時、退職間近であった義父と、一生徒との出会いが、このような形で実を結んでいるとは、義父にとって最高の喜びであろう。「教師は、教壇に立ってこそ教師である」―その言葉を信条としていた義父の一面を垣間見た気がした。
H先生の訪問を機に、二十一年間手付かずにしていた義父の書斎を、夫とともに整理することにした。
八畳の間には、コの字型に、作り付けの本棚が並び、法律の専門書から大衆小説に至るまで、実に幅広いジャンルの書籍がぎっしりと詰まっている。一日、三?四時間の読書を欠かさなかった義父。赤茶け、埃をかむった本の一冊一冊に、義父の人生がしみこんでいる。今なお粗壁に裸電球の下がるこの部屋が、教育への情熱と研究心とをかきたてる場となっていたことをあらためて痛感した。
本棚の片隅に置かれたダンボール箱からは、全く思いもよらないものが出てきた。The Diary of My Lovely Childと題した一冊の大学ノート。紛れもなく、長男である夫のために記した日記帳であった。青インキの文字は、夫の誕生する前日から一歳半までの成長の様子を、克明に綴っている。また、五十八歳の元日から、病に倒れる直前まで書き記した、原稿用紙二千枚に及ぶ日記。それには、学校での話題や私たち家族との関わりが細やかに綴られている。その一行一行は、あの日、あの時をまさしく義父が生きていた証である。
庭先で、涼しげに揺れる百日紅の花。無数の白いフリルの向う側に、義父の面影がよみがえる。義父の蒔いた小さな種は、あちこちで花を咲かせ、実を結んでいることだろう。そして、義父の刻んだ日々の記録は、私たち家族に、永遠のメッセージを送り続けている。