「あっ、Tさん」
と、母親の顔が視野に入り声を掛けたが、傍らに居たヨシ君を見た途端、次の言葉がみつからない。洗濯物を抱えていた私は、忙しい振りをして、愛想笑いで通り過ぎた。
同じ病棟に入院している子供の母親どうし。仲良くなったTさんの子は、障害を持っていると聞いていた。だが、その子の障害は、私が想像していた以上のものだった。
出産時脳障害で重度の心身障害児となってしまったヨシ君は、ベッドで寝たきりの生活をしている。Tさんは、彼の気分転換のために、胴体をがっちりと固定できる特注の車椅子で、時々散歩に連れ出す。私が初めて彼に会ったのは、そんなときだった。
ヨシ君を見てたじろいでしまった私は、Tさんに嫌な思いをさせてしまったのではないだろうか。気になってしかたがなかった。
その後は徐々に慣れてきて、自然に声掛けもできるようになる。
「なーんだ、ほかの子と同じように接すればいいのか。特別に気を使う必要はないんだ」
五歳の娘は、もっと素直にヨシ君を受け入れた。点滴棒をガラガラと押して彼の病室を訪れては、会話のできない彼に話しかけたり、手を握ったりする。彼が発作で泣きだすと、
「ヨシくん、ヨシくーん」
と、おしりをトントンして世話を焼く。
しばらくして、彼に初めて会ったときのことをTさんに打ち明けた。
「最初はみんなそうや。それだけの人と、そこから仲良くなる人と別れるねん」
彼女は、やわらかい関西弁で静かに話す。
「ヨシはあんなんやけど、まわりを変えていく不思議な力を持ってるみたい」
そんな言葉も聞いた。
母のTさんは、彼に絵本を読んでやり、他人ではわからない、小さな感情の変化も見逃さない。病院で迎えた彼の十二歳の誕生日には、私と娘の手作り絵本をプレゼントした。それを読むとヨシ君はとても喜ぶのだと、Tさんにおしえてもらった。
ある日、彼の病室をのぞくと、Tさんは留守だった。私は、何気なく、
「ヨシ君、おばちゃんは、だーれだ?」
と、声を掛けてみた。返事を求めたのでもなく、彼を試したのでもない。ところが、私の声を聞いた彼は、自由に動かない首を一生懸命動かして、手作り絵本を見てからくるっと振り向き、母親似のきれいな瞳で私を見る。それは、彼の偶然の動作だったかもしれない。しかし、私には、「これをボクにくれた、ノリちゃんのおばちゃん」と、力を振り絞って応えてくれたような気がした。
「そう、ノリちゃんのおばちゃんだよ!」
心がポワッと温かくなる。
私は、すっかりヨシ君の魔法にかかってしまい、ちょっとだけ自分の世界が広がった。