母は、姉と私の姉妹を連れて、よく里帰りをしていた。祖父は診察が終わると、医院の続きで家族の居室へ帰って来る。薬局と居間との境は、衝立でしきられていた。祖父は、衝立の向こうから、白衣を獅子舞の獅子のように頭からかぶり、「ウォーッ!」と私たち孫の背後を襲って来るのである。急襲に驚き、「キャ―ッ、キャ―」と言って逃げながら、祖父に捕まえられるのが嬉しかった。祖父が好きだった。何といっても、私は、祖父の手によって、この世に“生”を受けたのだから。私は、祖父にとって四人目の孫であった。
座敷の隅っこには祖父の文机が置かれていた。机の上のペン皿には、万年筆、耳かき、爪切りなど、子供が興味を引くようなこまごましたものが置いてあった。祖父がいないとき、私は、それらの一つ一つを触って遊んでいて、何かを壊し、祖母に叱られた記憶があるが、何だったか覚えてはいない。
文机のそばに四角い火鉢があった。鉄瓶がかけられ、いつもシュンシュンと白い湯気が立っていた。机と直角に、一文字盆が置かれ、その上に、煎茶器のセットがきちんと並べられていた。茶托は灰色の金物としか覚えてないが、錫ではなかったか、と思う。祖父は診療の合間に煎茶を入れて飲むのが愉しみだったらしい。幼い私には、祖父が“おままごと”をして遊んでいるように見えた。おじいちゃんのおままごとは、とても優雅。ゆったりした中にも、リズム感のある祖父の手元を、私は飽かずにじっと見ていた。
少し前、私は、大分の竹工芸家の創られた堤籃(ていらん)を求めた。堤籃とは、煎茶器を入れて運ぶ道具だ。ゆるやかな波の紋様が浮き出るよう網代にしっかり編み込んであった。この入れ物の蓋と本体の内側は、古い着物地が張られ、祖母の時代へと郷愁をそそられた。工芸家の技の確かさと、着物地の懐しさに魅せられ、自分のものにしてしまった。そして、これを眺めていると、私が九歳のとき、脳卒中で倒れ、他界した祖父のことがしきりに想い出される。
幼い日、目にしていた祖父の煎茶点前を、私も引き継いでみようかと密かに考えている。煎茶のおいしさを理解し、味わえる年齢に、ようやく達したように感じている。おいしい煎茶が入れられるようになったら、天国から祖父を呼びもどすとしよう。
これまで、祖父と私を結びつける絆として、血のつながり以外に考えたことがなかった。けれど、家庭で営まれている日常の何げないことが、伝わっていることに気づいた。親から子、子から孫へと脈々と伝わってゆく。これが、〝文化?というものを形作っているのだろうか。