目をやると、広い廊下の窓の下、車椅子に腰かけたおじいちゃんがいる。九十はとっくに過ぎているだろう。
胸には、ピンクのおくるみにくるまれた赤ちゃんが。ひ孫なのか。子守歌に合わせて、細くて白い手で赤ちゃんの背を叩く。
幸せに満ち満ちた光景だった。窓から入る初冬の日ざしよりも、温かい光景だった。
幸せのおこぼれを頂戴しようと、おじいちゃんのかたわらに腰をおとす。「あっ」赤ちゃんをのぞきこんだ私は声を放った。市松人形のつぶらな瞳が、見つめているではないか。
目のやり場に困った私は、窓の外を見た。風に樟の葉が、さざ波のように揺れている。
言葉がない。お座成りな言葉など、この場にふさわしくない。私は無言のまま、彼の側を立ち去った。何度も何度も振り返りながら。
姉は脳溢血で倒れて、入院していたのだ。たびたび姉を見舞う私は、何度おじいちゃんの子守歌を耳にしただろう。食堂のテレビの横で。「麦藁帽子の少女」の絵の下で。
入院患者は、お年寄りが多かった。日曜日ともなると、面会室には、患者さんの息子達や孫達らしい声がひびいた。手みやげのみかんやバナナを前に、それぞれに、家族の温かさにどっぷりと浸っている。
私は、見舞い客のまったくないおじいちゃんが気にかかった。淋しくはないのか。うらやましくはないのか。が、杞憂だった。彼はどんな時も、お乳をたっぷりと飲んだあとの、赤ちゃんのような表情を浮かべていた。どこかふるさとの野仏に似ている。
子供の頃に聞いた、祖父の言葉を思いだす。-人にはそれぞれに運命の神様がついとってなあ。運の悪い時には、何をしても、ええようにはならん。そんな時は幸運が回って来るまで、昼寝でもしとけば、ええんじゃあ。
おじいちゃんは、運命の神様にまったく逆らわないで、神の手の平に、すっぽりと包まれて、あんなに穏やかに暮らしているのだろうか。
一ケ月の入院生活を終えて、姉はリハビリセンターへ移ることになった。姉の車椅子を押して廊下を歩いていると、おじいちゃんの子守歌が聞こえてくる。
一度でいい。おじいちゃんと心を通わしたい。私は、しばらくおじいちゃんを見守った。しかし、空振りだった。彼の目は、胸の市松人形から、はなれなかった。
優しさ半分、せつなさ半分の気持ちで、病院をあとにする時、ふと気がついた。
おじいちゃんが、胸に抱きしめているものは、見つめているものは、まぶしいほどに光り輝いていた、遠い遠い日々なのかもしれないと。