小学生の子どもを持つ母親で、三十六才になる私の娘が、「今まで言わなんだけど」、と思いがけないことを口にした。今から四半世紀も前の、娘自身が小学生の時のこと。娘が学んだ小学校は、凧作りがさかんだった。一年生は小さなダイヤ形の凧。二年生は長方形。学年が上がるにつれて、大きな飛行機型や、あんどん型やら、変わった形の凧も作った。母の私は、今でも娘の作った凧を捨て難く、かっての娘の部屋や、玄関の壁に飾っている。
凧上げの季節である冬を前に、学校をあげての凧作りであった。図工室には、制作中の凧がそこここに掛けられていた。ちょうど図工室に居合わせた娘の同級生たちは、上に掛けられていた凧に跳び上がって、手を触れ始めたそうだ。いかにも子どものやりそうなことだと思う。見ていた娘に、「○○ちゃんは背が低いから、届くまあ」、と言う声がかかった。そう言われると、悔しさもあって跳び上がらざるを得ない。跳んだとたん、先生が入ってこられた。「作品に触ってはいけません」、当然の叱責である。現場を見られた娘は、言い訳をようしない。一人怒られてしまった。「私もやりました」、と名乗り出る者はいない。「あなたたちもやったの」、と一言回りの子どもたちに、先生が尋ねてくださっていたらよかったのに、と思われる。そう尋ねられても子どもたちは、自分たちもしたことを黙っていたであろうか。先生も、そこまで場の空気が読めないことも時にはあるだろう。子どもの世界の心情の奥深さを垣間見た思いで、師も親も年長者は、余程心して子どもに向き合わねばなるまい、と痛感した。
今、その泣きべそをかいた娘も、小学生の子を持つ母親となって、子どもを取りまく環境に目配りしなければならない日々を過ごしていよう。だからふと、自分の子どもの頃のことを漏らしたのであろうか。
二十五年も前のこととはいえ、帰宅した娘の様子に気付かなかった、私の母親としてのいたらなさを思った。子どもは小学校高学年ともなると、その日あったこと全てを語るわけでもないだろう。また、隠しおおせることぐらいやってのけるかもしれない。親は子どもの様子をよく見ていなければならないし、見たことのみでなく、そこに至った状況をも聞く必要がある。娘が誰を責める口調でもなかったことが救いではあって、今後の子育てに生かしてもらいたい、と私は願っている。
見た事実の裏に、隠されている真実もある——と、私も心して生きていきたい。