わが家の庭には、大きな南天の木がある。
昨年の暮れ、夫は通路の邪魔になるからと南天の枝を四、五本切り取った。そのうち処分しようと思ったのだろうか。枝を束ねてブロック塀にたてかけた。それから、半年近くが過ぎた。
先日、夫は居間に新聞紙を広げると、その上にあぐらを組んで、乾燥した南天の枝をカッターで削りはじめた。会社一筋のひとだった。家でカッターを持ったことなどほとんどない。慣れない手つきがあぶなげに見える。「ありゃあ」や「しまった」などの言葉を発しながらの作業は、二時間近くにわたった。新聞紙の上には、木屑が山盛りになっている。
「できたぞ、完成じゃあ」
やおら私の方に体の向きを変えた夫の手のひらには、二膳の箸が。一膳は大ぶりに、もう一膳は小さく細くできている。
「これが私の?」
大ぶりな方を私は指さす。
「寝ぼけなさんな」
夫は、いつも少し落としている左肩をひょいと上げる。
大柄で、態度も声もでかい私に、男としての威厳を示したいのだろうか。二膳の箸の大きさの差には、歴然たるものがあった。
夕食の時、夫はさっそく、できたばかりの箸を使いながら言った。
「南天の箸はええもんらしいぞ。難を転じるの意味で魔よけになるし、何年も使っているうちに、べっこう色になるそうじゃあ」
そう言えば、遊びに来た夫の友人が、切り取った南天の枝を見ながら、そんなことを言っていた。
「べっこう色か、ええなあ」
箸をもったまま私はつぶやいた。
若々しくなれたらいいなあといつも思っている。でも、朝日のあたる玄関にかけてある鏡を見ては、ため息を繰りかえすばかり。
南天の箸が、歳月とともに色を変えていくように、奥行きのある、味わい深い人間になることができたなら。
「うん、私もべっこう色になるわ」
突然の言葉に、夫はきょとんとした表情を浮かべる。
そんな夫に続けて言いたいことがあった。
「ふたりがべっこう色になるまで、お父さん一緒に歩いていこうね」
と。でもその言葉は私の胸におさめた。
食事の後、二膳の南天の箸を洗う。箸は今、やや黄色を帯びた白色だ。少しの汚れも、湿気さえをも許さない色だ。
真っ白い布巾でていねいに拭くと、箸立てに並べておさめた。