終戦も近い昭和二十年、日本は米国の空襲を受け都会とゆう都会は殆ど焼野原と化し、大勢の人が亡くなっていました。
この頃、私の姑はひどい『じ』の病で苦しんでいました。じに効くとゆうあらゆる薬も治療法も姑には効かないのです。こんなこともありました。知り合いの人が田螺を持って来て、「この田螺の肉を肛門に当ててお灸をするとどんなじでも治る」と言うのです。それは姑にとっても私にとっても大変な作業で、私はお灸をしながらふと「拷問だ」と思ったほどでした。
この拷問のような治療も姑のじには効果がありませんでしたが、姑はこの田螺灸のあと、手術を受ける決心をしました。
かねてその病院のことは聞いていて、どんなじでも治るとゆうことでしたが、手術の後の何日かはとてもつらいと聞かされ、決心がつかないでいたのです。いよいよ明日は入院と決めて、入院の用意の物を大きなバックに入れて寝につきました。
その真夜中です。B29の大きな爆音に目が覚めました。岡山市が大空襲を受けたのです。姑を起こし私達夫婦は十才を頭に四人の子供をつれて裏の田んぼの中に身を潜めていました。岡山市内はもう火の海です。何億燭光の電燈よりも明るい岡山の上は真黒な煙に覆はれています。六高の校庭に何百、何千とゆう焼夷弾がまるで花火のようにキラキラと舞い落ちていきました。敵機は焼夷弾を撒き散らして去っていきました。六高が燃え、隣町の古京が燃え火は我が森下町へ燃え移って来ました。その時、突然大夕立のような雨、真黒い墨汁のような雨が降って来ました。この雨で火は消されました。幸い私の家は焼け残りました。
家に帰ってみると、大人や子供や二十人ほどの人がいました。焼け出された親類の人や知り合いの人でした。時計を見るとお昼前です。私は大きなお釜でお雑炊をたきました。
「焼け残った家が皆の家です。遠慮なくお使いください」お雑炊をついで回りながらそう言いました。本当にそう思いました。それからの我が家は戦争のようで夢中で何日か経ちました。何時もはお台所へ入るのも珍しい姑がこの時ばかりは別人のように甲斐甲斐しく働いてくださいました。その内、焼け出された人たちも、それぞれ落ちつき先に出ていき、久しぶりに家族だけの朝食の卓についたのは、空襲から十日も経っていました。私はふと姑のじのことを思い出しました。「お母さん、じの方はいかがですか」と言うと姑はいかにも驚いた様子で「アラマア、すっかり忘れていた。アラマア、すっかり治ってしもうた。」と爽やかな顔で言いました。
奇蹟が起こったのです。でも私が本当に奇蹟と思うのは、姑がそれから亡くなるまでの三十年間一度もじが痛いと言われなかったことです。