凍(い)てつくような日だった。盛岡でのある茶会の席で、持て成す側の一人が馴染(なじ)みらしい客人に親しそうに話し掛けている。その言葉のおっとりしたやさしい響きに、懐かしさが込み上げ、ご年配の着物姿が美しいその方に思わず声を掛けていた。
「盛岡弁でございますね。懐かしく聞かせていただきました。私の母が、すっかり同じ言葉の口調でしたから……」
何年か振(ぶ)りに聞く、生粋の盛岡弁だった。一面識もない私に、突然、声を掛けられたその方はちょっと戸惑った様子で、「そでがんすか……」と言い、あとの言葉はなく黙ってしまった。
年に数回ほど、郷里の盛岡に出向く。だが、時の流れがそうなってしまうのだろう。最近は耳にし、接することが少なくなってきた。
盛岡弁でもとりわけ、母が遣う相手を敬う言葉が忘れられない。例えば、目上の人には話の語尾に「ござんすなっす」親しい人には「なっす」「なはん」とつけて話した。
私はやさしい響きのある「なはん」が好きだった。友だちと喧嘩(けんか)し、母に叱られても「おめはんは、悪ぐながったのすか。直(す)ぐ、仲直りをするんだがらなはん」とやさしく言われると、心から反省したものだ。
また、母は出勤時の父に、丁寧に頭を垂れ「行っておでんせ」と見送り、帰宅の際は「おげれんせ、疲れやんしたえん」と同様にして出迎えた。私たち姉妹も結婚すると、母のように玄関先で三つ指こそつかなかったが、夫に対し、自然にその習慣が身についていた。
所変われば、言葉のニュアンスも違ってくる。私が県南の金ケ崎町に嫁いできて間もなく、土地の習わしであった近所の挨拶(あいさつ)回りをした。義母が案内してくれ、他人の屋敷地内に入って行く時、その家の方に顔を向け、こう声を掛けた。
「ごめんなんえ、お通(ど)しなすってくなんや」
わが地区は江戸時代からの広い地割が残っており、小路は左折右折の曲り角が多い。まして、当時は道幅も狭く、舗装もされていなかった。そこで、正道を通っていては時間ばかりかかり、挨拶の声掛けだけは必ずして、お互いに敷地内の通行を許し合っていた。
何軒目かの家で、茶の間から5歳ぐらいの男の子が主(あるじ)より先に飛び出し、にこっとして、「おへんなんえ」と、その表情の愛らしさに私の顔も綻(ほころ)び、馴(な)れない土地での緊張感が解(ほぐ)れていった。
家の中に案内され、堅くなって正座をしている私に主が、「お平(だい)らになさってくなんえ」と足を崩すように、勧めてくれた。
「……なんえ」は「……なはん」に似たやさしい響きであった。方言もこう丁寧に使われると品があり、温かく包み込んで一層親しみが湧(わ)いてくる。とは言っても、若い時は流(りゅう)暢(ちょう)な都会言葉に憧(あこが)れた。
私が20歳頃のことである。東京に就職した友人の所へ遊びに行くと、彼女は会社の同僚も誘い、スケート場へ行った。私は盛岡言葉を出すまい、と東京弁に必死だった。
盛岡の冬は凍(しば)れ、高松の池も凍る。自然、スケートがうまくなる。スケート靴を履いた私は、使い慣れない東京弁の窮屈さから解放され、人ごみの中を得意になって滑っていた。
不意に背後から体当たりされ、転倒してしまった。その途端、飛び出してきた言葉は、「あっしゃ、やんたぁあ!」。
甲高い私の声だけが、氷上を滑っていく。はっと我に返り、今更「あぁら、いやだわ」とは言えない。恥ずかしさに身が縮み、頬(ほお)が火照(ほて)ってくるばかりであった。
独身で自由奔放に過ごしていた最中、母が重い病に倒れ、回復は捗々(はかばか)しくなかった。母は、せめて八幡様のお祭りには窓際に立って山車を見るまでになりたい、と自分を励ましていた。が、感ずるところがあったのだろうか、病床からすがりつくような目で、回診してくれる先生に言った。
「わたしは、もうだめでござんすか」
先生は無言のまま微笑し、聴診器を当てていた。返事を待ち切れぬ母は、
「先生もつろうござんすなっす。だめな者さ、だめだとは言われねござんすものなっす」
私は母に背を向け、溢(あふ)れる涙を押さえた。自分を全て犠牲にし家族に尽くしてきた母の、その労をねぎらいたくて、温泉行きを計画していた。母は喜んでくれた。なのに、倒れてしまい、母はしみじみと言った。
「おめはんと約束していた温泉さ、とうとう行げなぐなったなはん」
盛岡弁で一生を終えた母。深く脳裏に刻み込まれている「なはん」をそっと呟(つぶや)くと、心が温もり、なはんは母の置(おき)土産である。