早朝、細野女剣舞の庭元が訪ねてきた。軽トラックから降りた彼は、作業着に地下足袋姿。スネには脚絆(きゃはん)がまかれ、鞘(さや)に納まった鉈(なた)が腰に下がっていた。
「工房に上がって」と勧めたが、山仕事に行く途中だからと断り、玄関先で用件を語った。
「新しく跳ね人が増えたから、面が必要になった」と、嬉(うれ)しそうである。跳ね人とは、剣舞の踊り手のことである。
「若い女性ですか」
「そうだ」
「三代目ですね」
うなずく顔が、誇らしい。
「これが今、うちの女房が被(かぶ)っている面だ」と、手作りの袋から大切に取りだした面は、紛れもなく私が十数年前に作ったものである。見れば、相当年月が経(た)っているのにどこも壊れてはいない。それでもこれまで何度も使われたであろうことは、落ち着いた色合いに変わったその光沢から伺える。
細野剣舞が被る面は、黄色1色だけである。普通剣舞は、青、赤、白、黒4色の面を被り、それらはそれぞれ春夏秋冬や、東、南、西、北を表し、また、大日如来を守護する五大明王のうちの降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉(やしゃ)の各明王を表すと言われている。
だが、細野では、代々黄色い面だけが用いられてきた。それには一体どんな意味があるのだろうか。十数年前に制作を依頼されたときの疑問が、再びわき起こってきた。
中国の五行思想によれば、黄色は土を表すと言う。更に東西南北4色の中心に位置するのが黄色だとも解釈されているから、これは農民の誇りを表し、更には五大明王の中心、大日如来の化身である、不動明王を表すものかも知れない。
「この型ならまだありますから」と、私は製作を引き受けた。なによりも、地元の芸能に使われるのが、嬉しい。
細野女剣舞を初めて見たのは、今から25年ほど前のことであった。なにかの催しにゲストとして招かれたのだったが、私はあの時の驚きを今でも忘れることが出来ない。
それまで剣舞は男の芸能だと信じていた。元々は、平泉で死んだ義経主従の怨霊(おんりょう)を鎮め、邪悪を払う修験の所作から始まった芸能だと言われる。後に先祖供養、家内安全、豊作祈願なども祈られるようになったが、あの激しい踊りを女が出来るものではなく、女が踊るという意味も感じられなかった。
だが、催場の青空の下、8人の剣舞は見事だった。面は被っているが、その体型から女性達だとすぐに分かった。男達のような険しさや鋭さは感じられないが、動きには流れがあり、リズムは軽やかだった。
激しい動きに胸は大きく揺れていた。茶色に黒の線の入ったモンペの脇から時折見える下着が多少色っぽかったが、熟練した踊りは、永く伝承されたことを物語っていた。なによりも8人の踊り手達が全員、喜びを体いっぱい表現していることが嬉しかった。
笛、太鼓、手平鐘に合わせた長い一番が終わると、女達はその場に座り込み、肩で息をしてしばらくは動けなかった。そうしておもむろに面をはずしたその顔を見て、私は感激した。
なんと、「初老」と見える女達だったのである。長い農作業で刻まれたであろう深いシワは汗に輝き、満面は屈託のない笑顔だった。
勿論(もちろん)、観衆の拍手はしばらく周囲の建物に反響して止(や)まなかった。
「なぜ女達が剣舞を踊るのか、なぜ女が鬼になるのか」。それもこれほど見事に。私はその疑問を解いてみたかった。いろいろと調べて、次のことが次第に分かってきた。
今から60年ほど前、太平洋戦争も末期になって、男達は次から次と召集され、集落は女だけになってしまった。女達が家と農作業を守り、地域を守らねばならなかった。地域に代々受け継がれてきた伝統芸能も担い手はなく、消滅しそうになっていた。そのとき、若妻たちが立ち上がったのである。
「自分たちで剣舞を受け継ごう」と。戦時中のことである。大和なでしこが鬼になるなど、きっとタブーだったに違いない。だが、夫を戦場に駆り立てられた若妻達の憤りが、鬼になることをいとわなかったのではないだろうか。
細野剣舞は、以来、女剣舞として継承された。戦後は、折角無事に帰った夫が、今度は出稼ぎで留守をするという心細さを女達は鬼となって耐えたのだった。
彼女らは既に後継の嫁達に道を譲り、更に今、三代目の若い女性が鬼面を被るという。
安倍宗任が築いたと言われる鳥海の柵(さく)。その鳥海の地名を誇りとする細野女剣舞が廃れることのないようにと、私は黄色い面を作っている。