師匠の目が光り、注意が飛ぶ。またもや刷毛(はけ)の持ち方を間違えてしまったのだ。表具刷毛は形も持ち方も卓球のラケットに似ているので、気をつけていても、いつの間にか慣れた持ち方になっている。あわてて握り直した手もとはぎこちない。背中に師匠の視線を感じて、ガチガチと肩も凝ってくる。表具修業の第一歩は刷毛の正しい持ち方から始まった。
表具と出合ったのは30代半ばのころ。町民講座に表具教室が開講していた。そのころの私は「表具」という言葉など知らなくて、掛け軸にはなんの興味もなかった。洋風スタイルにあこがれて、和の文化を一段低く見ていた若い時代である。
そんな私が、掛け軸を作ることになった。この講座に参加したがっていた母に代わっての受講である。夏場の蒸し暑い時期に立ちっぱなしの作業は病弱な母には無理だと思ったからだ。
表具教室は毎週1回、10回コースで掛け軸を一幅完成させる。講習は先生がみんなを集めて一区切りお手本をやってみせ、私たちがそれを即実践するという形である。目と体で覚えるということなのだろう。テキストなどプリントされたものは一切ない。
説明書きを読んでだいたいの流れをつかみ、先生の実演は参考程度。分からないところは後でもう一度じっくり読み込んで理解すればいい、と高をくくっていた私には困った方式だ。メモを取っているうちに大切な場面を見逃がしてしまうことも多い。馴染(なじ)みのない「寸・尺」の単位もやっかいだ。開講直後からやる気をなくした。
だが、道具と材料のスポンサーは母である。母は新築中の我が家に掛け軸を飾るのを楽しみにして、私をこの講座に送り込んでいる。
「興味はないけど、切ったり張ったりの工作はまかしとき!」
大口をたたいた手前、何とかモノにしなければならないのだが、悪戦苦闘の末に仕上った掛け軸はとても不格好で、床飾りには向かなかった。
翌年の講座は知らないふりをした。しかし母は公民館からのお知らせを見逃さない。
「立派な道具も揃(そろ)えたんだし、1本くらいまともなものを作ってちょうだい」
「………」
投げ出したい気持ちにフタをして、またもや講座通いが始まった。昨年の経験はすでに記憶のかなたに消えている。つかみかけたコツのようなものも、長い時間の空白でゼロに戻っていた。だがこんないい加減な私のどこを見抜いたのか、先生は「弟子になれ」と言う。その一言が私の人生を大きく変えることになった。
言われるままに表具師の見習いになった私の仕事は古屏風(びょうぶ)の解体と桟掃除、下張り紙の張りつけという雑用である。来る日も来る日も汚くて単調な作業の繰り返しで次第に飽きてきた。しかし、ここが我慢のしどころ。今はじっくりと刷毛さばきを学び、自分のものにする修練の時なのだ。自己流の癖を直され、表具の基本的なことをしっかりと教え込まれた。
刷毛が身体の一部分となって自由に使えるようになると、いよいよお客様の作品に触らせてもらえる。このころになると仕事のおもしろさがうっすらと分かってきた。
実際、表具修業とは技術の上達だけではなかった。書画作品や落款を見る目、仏教や茶道の基礎知識、色彩のセンス、表具材料である和紙や裂地から紙漉(す)きや機織りの工程、さらには染色へと関連領域は幅広い。作業の合間に聞く師匠の話はどれも興味深いものだ。
表具の役目は作品の装飾と保存にある、とも教えられた。書画作品が人々の生活の中に取り込まれ、何百年も生き続けられるのは掛け軸や額の形に表具されているからである。紙や絹という脆弱(ぜいじゃく)な素材にしるされた文化を先の時代から受け継ぎ、次の時代へ受け渡すための「器作り」が表具なのだと気がついて、仕事に誇りが生まれた。そしてそれは本気で職人への道を歩き出す力となった。
私が暮らす平泉の中尊寺は、栄華をきわめた平安時代の100年間に膨大な数の経文を書写して今に残している。装飾経の至宝として知られる「中尊寺経」をガラスケース越しに眺めた時、一体だれが紙を漉き、紺色に染め、巻物に表具したのだろうか、とふと考えた。書物は職人たちの記録など一切伝えていないが、技術を携えて京から下って来たさまざまな職種の工人たちがこの地に定住し、平泉の壮大な仏教文化を下支えしたことは想像に難くない。
中尊寺の山から湧き出した清水で糊(のり)を炊き、経巻作りをしていた職人が、今の私の仕事場の近くに工房を構えていたかもしれないと思うと、胸は高鳴る。
もしも時空を越えて彼に会えたなら、仕事の成果は800年後も立派に残っていること、それも荘厳な経文の表具ゆえに国の宝となって大切に護(まも)られていることを、ぜひとも伝えたい。そして、私も後の世で同じ道を歩いている者です、と名乗りたい。