僕は巨大な弁当に注がれる周囲の客の視線を気にしながら、フタを少しだけ持ち上げ箸を突っ込み、わずか三口か四口食べただけで網棚に仕舞い込んだのでした。恥ずかしさのあまり東京駅で風呂敷ごと捨ててしまった僕は、今になって、あの巨大な弁当に込められた母さんの計り知れない大きな愛を感じています。
父さんが始めた商売がなかなか軌道に乗らず、どんな辛い苦しい思いをしたか、当時の僕には想像もつきませんでした。
生意気盛りの反抗期の僕は、母さんが風呂の燃料用にと魚屋からもらった古い魚箱をリヤカーで運ぶこともせず、斧で割ることもしませんでした。滞納した授業料を催促する僕に、どんな思いで「もう少し待ちなさい」と言ったことでしょう。
千円の通学定期も満足に買えなかった貧乏の中で、独立する、新聞奨学生となって大学に行くと宣言した僕を、金銭的援助の出来なかった母さんは、どんな思いで駅のホームから見送ったことでしょう。
僕が上京してから服やお菓子を送ってくれた時、一緒に入れてあった五千円札が思い出されます。毎回判で押したような母さんの生活上の注意の手紙が思い出されます。
母さんの愛を僕はずいぶん裏切りました。でも、それでもなお、母さんは僕を愛し続けてくれました。その愛情の深さに、僕はおびえるほどです。
そして三人の子供の父親となった四十九歳の息子が今、泣きながら、鼻をかみながら、この手紙を書いていることで、親不孝の何分の一かでも許して欲しいと思っているのです。