当時のうちには野良猫がいた。私が寂しさにかまけて猫に残飯を与えていたからだ。夕暮れ、一人になると不安と寂莫に苛まれて、とにかく周りに生き物を置きたかったのだ。
その猫が子を生み、子猫が着々と育っていくのを、母猫と一緒に微笑ましく見守った。
ところがある日、母猫が、近づいてきた子猫を強烈な右ストレートでぶちのめしたのだ。背中を弓なりに曲げ牙を剥きだし、毛を逆立てた姿は阿修羅のようだった。
いきなりの事にびびったのは私だけではなく、殴られた子猫こそまさに晴天の霹靂だったはずだ。目を真ん丸く見開いて口すら開けていた。
親離れが来たのだ、と知った。訳が分かっていない子猫はなおも近づこうとしたが、母猫はその度に強烈パンチを浴びせ続けた。
十分くらい経ったろうか。
子猫は母猫に背を向けた。テッテッテッテと離れていく。母猫は伸ばした後足をなめていた。子猫の姿が見えなくなったころ、彼女は顔を上げ、子猫が消えた行方をじっと見つめていた。
私はふいにこみ上げてきて泣き出した。
出て行った母はもう帰ってこないんじゃないだろうか。今が私の親離れの時期なのだろうか。焦りと不安と寂しさでドウドウと涙が溢れ出てくる。
猫が体をこすり付けてくれるがちっとも寂しさは薄まらない。
「ただいま・・・・どうしたの美由紀」
その声に私は顔を上げた。持っていった荷物を両手に提げてきょとんと見下ろしている。私は母に飛びつきたい衝動を堪えた。母が隣にしゃがみこんだ。私の頭に手を置いた。
「ごめんね」
またやっちゃった、と母は舌を出した。またやっちゃったけど、また帰ってくる。
母の手は毛糸の帽子のように私の頭をすっぽりしっかり抱え込んだ。お化粧の優しい香りがした。