原発から60キロも離れたこの地も放射線の影響が忍び寄り、物流が途絶え、スーパーやコンビニの棚から食料品がまたたく間に消えた。また断水となり、水を求めて役所の前に並んだり、お寺に井戸水をもらいに行ったりした。大きな容器に水をくんではクルマに積む作業を毎日くりかえした。娘は小6、息子は中3で高校受験を控えていた。
「避難区域になっていないのに引っ越ししている人がいるけど、うちはどうしようかね?」と尋ねてみると、息子も娘も首を横にふった。
「このままがいいよ。住み慣れたとこが最高」
「わたしも友達と別れたくないから」
そう言いながら重い水を車に積み込んだ。
いつの間にやら子どもたちは、たくましくなっていたようだ。
兄は卒業式を無事に終えていたが、23日の娘の卒業式は中止になった。娘は気の毒なくらい気落ちした。式はなくなったけれども、「目に見えない」放射線なんかに怯えてばかりいないで、優しさや思いやりといった「目に見える」モノを積み重ね、希望や勇気に変えられる気概を身につけられたら、それは立派な卒業といっていいのではないか。
歌うことが大好きな娘は「旅立ちの日に」を毎日のように練習していた。卒業式がなくなった23日、僕は「旅立ちの日に」を歌うことを提案してみた。娘の透き通った歌声に僕の野太い声がからみつくような歌声になったが、歌い終わると娘の口元に笑みが浮かんでいた。
笑顔もない、季節の色も感じない、のっぺらぼうだった世界に彩が戻ってきた。
わが子らよ、この千年に一度といわれる未曾有の現状を丸ごと受け入れ、人の痛みや悲しみをわかち合える人になってくれ。自らの未来を探り当て、将来像を描いていってくれ。僕は、歌の余韻にひたりながら願いをかけた。