白桃に入れし刃先の種を割る 橋本多佳子
あの日私は、白い天井を見ていた。私は水色の布の下に居た。布はまるく切り抜かれて、そこから私の右乳房がのぞいている筈だった。
若い男がいっぱい。医師でなければこれは異様な景色にちがいなかった。
ドイツ語がみじかく交されて、涼気がその一点に走った。
それから旬日、私の乳房には津軽じょんがらの太棹《ふとざお》が響きづめであった。
けれども、あの日あの台に横たわるまでのほうが苦しかった、と思う。
若い男がいっぱい。医師でなければこれは異様な景色にちがいなかった。
ドイツ語がみじかく交されて、涼気がその一点に走った。
それから旬日、私の乳房には津軽じょんがらの太棹《ふとざお》が響きづめであった。
けれども、あの日あの台に横たわるまでのほうが苦しかった、と思う。
桃一箇 一刀ありて わが乳房
一気呵成《かせい》が取柄の私がどうしても一息に吐けなかった一句。
検査結果シロの窓辺で偶然出会ったのが前掲の多佳子白桃の一句である。
もちろん多佳子代表作のひとつといわれるこの句は、実在把握の鋭さと確かさにおいて私の桃の比ではない。
しかし、わが桃の、しんたる中の、ふるえおののき、かくごのほどが、斯《か》くもみごとに割られたことの快感に、私はこの句が忘れられなくなったのである。
人には魂の色あいというものがあるように思える。
そっくりの色、似た色、溶けあえる色、拒否する色。
川柳にあけくれするようになって十年も経ったころだろうか、橋本多佳子の
検査結果シロの窓辺で偶然出会ったのが前掲の多佳子白桃の一句である。
もちろん多佳子代表作のひとつといわれるこの句は、実在把握の鋭さと確かさにおいて私の桃の比ではない。
しかし、わが桃の、しんたる中の、ふるえおののき、かくごのほどが、斯《か》くもみごとに割られたことの快感に、私はこの句が忘れられなくなったのである。
人には魂の色あいというものがあるように思える。
そっくりの色、似た色、溶けあえる色、拒否する色。
川柳にあけくれするようになって十年も経ったころだろうか、橋本多佳子の
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
を耳から聞いた。
あッと思った。
川柳は、というよりも私の句は素材が躰《からだ》の中を駆けめぐった果てに丹田に集まり、そこから吐瀉《としや》の形をとって表現になる。
「老婆を詠んでも、童女を詠んでも、私は自分との生のつながりにおいて見ずにはいられない」(橋本多佳子句集『海彦』後記)
ああ、ここにもと思った。
似た色を人は好むが、やがては憎むようになる。それは個に生きることが宿命である者たちの自然な心のなりゆきであろうが、私は多佳子におくれて生まれたことを悔んだ。
刃先に抉《えぐ》られた種のいたみのように、それは今も時折り私を襲うくやしさである。
あッと思った。
川柳は、というよりも私の句は素材が躰《からだ》の中を駆けめぐった果てに丹田に集まり、そこから吐瀉《としや》の形をとって表現になる。
「老婆を詠んでも、童女を詠んでも、私は自分との生のつながりにおいて見ずにはいられない」(橋本多佳子句集『海彦』後記)
ああ、ここにもと思った。
似た色を人は好むが、やがては憎むようになる。それは個に生きることが宿命である者たちの自然な心のなりゆきであろうが、私は多佳子におくれて生まれたことを悔んだ。
刃先に抉《えぐ》られた種のいたみのように、それは今も時折り私を襲うくやしさである。