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射撃手と農場主

时间: 2024-06-28    进入日语论坛
核心提示:射撃手と農場主 翌日は週末だったが、汪淼ワン?ミャオは早起きし、カメラを携えて自転車で出かけた。アマチュア写真家として、
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射撃手と農場主
 翌日は週末だったが、汪淼ワン?ミャオは早起きし、カメラを携えて自転車で出かけた。アマチュア写真家として、汪淼がもっとも好む題材は、人跡未踏の荒野だ。とはいえ、中年にもなると、そんな贅沢を楽しむ時間はなくなる。たいていの場合は、街角の風景を撮ることで我慢するしかない。
 汪淼はしだいに、都会の街角では珍しく、荒野の空気を感じさせる風景──たとえば公園の干上がった池の底、建設現場の掘り起こされたばかりの土、セメントの隙間から伸びている雑草──を選ぶようになった。背景の俗っぽい色彩を消すために、モノクロフィルムだけを使う。思いがけず、彼の作風はいつのまにかまわりに認められて、汪淼はアマチュア写真家の世界でちょっとした有名人になりつつあった。作品は大きな展覧会で二度入選し、写真家協会にも入会した。撮影に出るたび、ひらめきと構図を求めて、気の向くまま、自転車で北京の街をあちこち走りまわる。ときには一日じゅう、そうやって過ごすこともあった。
 きょうの汪淼は、なんとなく妙な感じだった。汪淼の作風は古典的な落ち着きが特徴だが、きょうにかぎって、そういう構図を選ぶのに必要な感覚をつかみきれないでいた。眠りから目覚めかけた夜明けの都市が、流砂の上に建っているような気がした。しっかりした現実のように見えるが、じつは幻想でしかないような……。ゆうべはずっと、漆黒の空間を不規則に飛びまわる、ふたつのビリヤード球の夢を見ていた。黒い背景にまぎれて黒球は見えず、たまに白球の前を通過するときだけ、その存在が明らかになる。
 物質の根本的な性質には、ほんとうに法則がないのか 世界の安定と秩序は、ただたんに、宇宙のある片隅における動的平衡状態、カァ」的な流れの中に生まれた短命な傍流にすぎないのか
 科学は殺されるのか
 汪淼はいつのまにか、竣工したばかりの新しい中国中央電視台本部ビルの前に来ていた。自転車を止めて道端に座ると、高々とそびえる字形の建物を仰ぎ見て、なんとか現実感をとり戻そうとした。朝日を浴びてきらきら輝くビルの尖った先端を目でなぞりながら、底抜けに深い青空を眺めると、脳裏にふとふたつの言葉が浮かんだ。
 ──射撃手シューターと農場主ファーマー。
〈科学フロンティア〉の学者たちは、議論のさい、しばしばという略語を使う。これは小説を指すのではなく、このふたつの単語の略だ。宇宙の法則の本質を説明するふたつの仮説、射撃手仮説と農場主仮説を意味している。
 射撃手仮説とはこうだ。あるずば抜けた腕をもつ射撃手が、的に十センチ間隔でひとつずつ穴を空ける。この的の表面には、二次元生物が住んでいる。二次元生物のある科学者が、みずからの宇宙を観察した結果、ひとつの法則を発見する。すなわち、〝宇宙は十センチごとにかならず穴が空いている?。射撃手の一時的な気まぐれを、彼らは宇宙の不変の法則だと考えたわけだ。
 他方、農場主仮説は、ホラーっぽい色合いだ。ある農場に七面鳥の群れがいて、農場主は毎朝十一時に七面鳥に給餌する。七面鳥のある科学者が、この現象を一年近く観察しつづけたところ、一度の例外も見つからなかった。そこで七面鳥の科学者は、宇宙の法則を発見したと確信する。すなわち、〝この宇宙では、毎朝、午前十一時に、食べものが出現する?。科学者はクリスマスの朝、この法則を七面鳥の世界に発表したが、その日の午前十一時、食べものは現れず、農場主がすべての七面鳥を捕まえて殺してしまった。
 汪淼は足元の道路が流砂のように沈んでいくのを感じた。字形のビルが揺れているように見える。汪淼はあわてて視線をそらした。
 こんな不安を消し去るためだけに、汪淼は無理やりフィルム一本分の写真を撮り終えた。昼食前に家に帰ると、妻は子どもを連れて外に遊びに出かけていた。昼には戻らないつもりらしい。いつもは撮影後すぐにフィルムを現像する汪淼だが、きょうはちっともその気にならなかった。それで、昼食を簡単に済ませると、ゆうべ眠れなかったこともあって、昼寝をした。目が覚めたのは夕方の五時近くだった。そのときになってようやく、午前中に撮った写真のことを思い出し、物置を改造してつくったせまい暗室に入って現像をはじめた。
 現像が終わった。汪淼は引き伸ばすべき写真があるかどうかネガをチェックしはじめたが、最初の一枚で奇妙なことに気づいた。その一枚は、大きなショッピング?センターの脇の小さな草地で撮ったものだが、写真の真ん中に、小さな白いものが一列に並んでいる。よく見ると、それは数字の列だった。
 1200:00:00
 二枚目の写真にも数字の列がある。
 1199:49:33
 フィルムのどの写真にも、小さな数字の列がひとつずつある。
 三枚目、1199:40:18。四枚目、1199:32:07。五枚目、1199:28:51。六枚目、1199:15:44。七枚目、1199:07:38。八枚目、1198:53:09……三十四枚目、1194:50:49。三十五枚目、最後の一枚は、1194:16:37。
 汪淼ははじめ、フィルムになにか問題があったのかと思った。汪淼が使っている写真機は一九八八年製造のライカだが、百パーセント手動の機械式カメラなので、フィルムに日付を焼き込むようなことは不可能だ。すばらしいレンズと機械構造のおかげで、このデジタル時代にあっても、いまだにプロ仕様カメラの王様と崇められている。
 もう一度すべての写真をチェックして、汪淼はすぐ、この数字の奇妙な点に気づいた。
背景の色に自動的に対応している。背景が黒ければ白の数字列、背景が白ければ黒の数字列。観察者が判別しやすいように、背景と対照的な明度を使っているらしい。十六枚目の写真を見たとき、汪淼の心臓がびくんとした。同時に、暗室の冷気が背筋に伝わってきたように感じた。この一枚は、古壁をバックにした一本の枯れ木が被写体だ。古壁はまだら模様で、写真でも白と黒が入り混じっている。こんな背景では、数字の列が黒でも白でも、ふつうなら、すべての字がきちんと判読できることはありえない。しかし、数字の列はなんと縦に並び、しかも曲がりくねっている。枯れ木の幹の深い色に合わせたように文字色は白く、まるで枯れ木の上をくねくねと這う細長い蛇のようだ。
 汪淼は列に並んだ数字のパターンを調べはじめた。はじめは番号が振られているのかと思ったが、数字と数字の差は一定ではない。それから、コロンで分けられた三つのブロックが、時刻の時、分、秒を表しているのではないかと思い当たった。汪淼は撮影記録用のメモをとりだした。そこにはすべての写真の撮影時間が分単位で書き記してある。両者を照らし合わせてみると、写真それぞれに現れている数字列の時間差と、実際に撮影した時間間隔とが一致しているのがわかった。しかし、フィルムの数字は明らかに、現実の時間の流れとは逆向きに時間を計時している。ということは、答えはひとつしかない。
 カウントダウンだ。
 カウントダウンは一二〇〇時間からスタートして、現在はまだ、残りが一一九四時間ある。
 現在 フィルムの最後の一枚を撮ったあの時から、このカウントダウンはまだ継続しているのか
 汪淼は暗室を出て、新しいモノクロフィルムをライカに装填した。部屋の中で適当に何度かシャッターを切り、最後にベランダに出て外の景色を撮影し、フィルム一本分を撮り終えると、カメラからとりだし、暗室にこもって現像した。現像されたフィルムには、あの数字のゴーストがどの写真にも現れていた。一枚目は、1187:27:39。前のフィルムの最後の一枚を撮影してからこのフィルムの最初の一枚までの時間間隔はまさにこのくらいだった。それ以後の一枚ごとの時間間隔は三、四秒だ。1187:27:35、1187:27:31、1187:27:27、1187:27:24……まさしく、汪淼が写真をつづけて撮影した間隔とぴったり一致している。
 ゴースト?カウントダウンはまだ継続している。
 汪淼はもう一度カメラに新しいフィルムを装填して適当に撮影し、そのうち何枚かはわざとレンズ?キャップをつけたままシャッターを切った。撮り終えたフィルムをとりだしているとき、ちょうど妻と子どもが帰ってきた。現像する前に、汪淼は三本目のフィルムを急いでカメラに装填すると、妻に手渡した。「このフィルムをぜんぶ撮り切ってくれ」「なにを撮るの」妻はびっくりして夫を見た。これまで汪淼は、このカメラに、他人には指一本触れさせなかった。もちろん、妻も息子も、そんなものにはまるで関心がない。彼らの目にしてみれば、ライカは、一台二万元以上もするくせに、なんの面白味もない骨董品にすぎなかった。
「なんでもいい、好きに撮ってくれ」汪淼はカメラを妻の手に押しつけると、自分は暗室に向かった。
「じゃあ、豆豆ドウちゃん、あなたを撮ってあげるわね」妻はレンズを息子に向けた。
 汪淼の脳裏にとつぜん不気味なイメージが閃き、ぞくっと身震いした。亡霊じみたカウントダウンの数字が、息子の顔の前に、首吊り用ロープの輪っかのように浮かんでいる……。「だめだ 豆豆は撮るな。ほかのものならなんでもいいから」 カシャッというシャッター音がして、妻が一枚目を撮ったのがわかった。すると、妻が叫んだ。「これ、一枚撮ったら、もうシャッターが押せなくなっちゃったんだけど」 汪淼は妻に巻き上げレバーの引きかたを教え、「こうやって、毎回、自分でフィルムを巻かなきゃいけないんだよ」と言ってから、暗室に入った。
「ほんとにめんどくさいのね」医者をしている妻には、一千万画素のデジタルカメラがすでに普及しているいま、まだこんな時代遅れのバカ高い機械を使っている夫の気が知れなかった。しかも、白黒フィルムだなんて。
 フィルムの現像が済み、薄暗いセーフライトのもとで、汪淼はゴースト?カウントダウンがなおも継続しているのを確認した。行きあたりばったりに撮ったでたらめの写真、レンズ?キャップをつけたままシャッターを切った何枚かも含めて、その一枚一枚にはっきりと現れている。1187:19:06、1187:19:03、1187:18:59、1187:18:56……。
 妻が暗室のドアをノックし、撮り終わったことを告げた。汪淼は暗室を出てカメラを受けとった。フィルムを巻きとる手がひどく震える。いぶかしげな妻の視線にもかまわず、汪淼はカメラからとりだしたフィルムを持って暗室に戻り、しっかりとドアを閉めたが、動揺のあまり、現像液や定着液を床にこぼしてしまった。フィルムはすぐに現像され、汪淼は目をつぶって、心の中で祈った。
 頼む、出てこないでくれ。おねがいだ。おれの番が来たんじゃないと言ってくれ……。
 ルーペを使って濡れたフィルムをチェックしたが、映っているのは妻が撮った室内のようすだけで、カウントダウンの数字はなかった。シャッタースピードの設定が遅く、手ぶれでぼけている。だが汪淼にとっては、いままでに見た中で最高の写真だった。
 汪淼は暗室を出て大きく息を吐き出した。全身、汗びっしょりだった。妻はキッチンで食事のしたくをしていて、息子はどこかべつの部屋で遊んでいる。汪淼はひとりソファに座り、少し冷静になって、論理的に考えはじめた。
 まず、この一連の数字列は、異なる撮影間隔を正確に、しかも時間の流れに沿って記録している。まるで知性を備えているような数字列だ。ぜったいに、フィルムの問題ではない。なんらかの力がフィルムを感光させたとしか考えらない。いったいどんな力だ カメラの問題か なんらかの装置がなんらかの方法でカメラに組み込まれた 汪淼はレンズを外し、カメラを分解してみた。内部をルーペで観察し、塵ひとつついていないピカピカの部品をすべて点検した。だが、なんの異常もなかった。レンズのキャップをつけたまま撮影した数枚の写真のことを考えれば、もっとも可能性のある感光源は、カメラ外部の、強い透過力を持つ放射線だが、これもやはり、技術的には謎だらけだ。放射線源はどこなのか どうやってピントを合わせているのか
 すくなくとも、現代の科学技術の水準に照らすと、この力は超自然的なものとしか思えない。
 ゴースト?カウントダウンがすでに消失していることをたしかめるべく、汪淼はまたライカにフィルムを装填し、一枚ずつでたらめに撮影した。今度は考えながらだったので、非常にゆっくりとしたペースになった。ようやくすこし落ち着きをとり戻していた汪淼は、そのフィルムを現像した瞬間、また狂気の淵へと押しやられた。ゴースト?カウントダウンがまた出現している。写真に表示されている時間からすると、カウントダウンは一度たりとも停止していない。妻が撮ったフィルムには現れなかったというだけだったのだ。
 1186:34:13、1186:34:02、1186:33:46、1186:33:35…… 汪淼は暗室を出て、家から飛び出すと、隣家のドアを激しく叩いた。ドアが開き、引退した張ジャン教授が現れた。
「張先生、お宅にカメラはありますか デジタル式のじゃなくて、フィルムを使うやつです」
「きみみたいな大写真家が、ぼくのような年寄りからカメラを借りるって あの二万元もするやつは壊れたのか うちにはデジタルカメラしかないよ……どうした、体の具合でも悪いのか、顔色がひどいぞ」
「いいから、貸してください」
 張教授は部屋に戻ると、すぐにごく一般的なコダック製デジタルカメラを持ってきた。
「ほら。データのバックアップはとってあるから、本体に残ってるのは消してくれても──」
「ありがとう」汪淼はカメラをひっつかむと急いで部屋に戻った。実際のところ、家にはほかに、アナログカメラ三台とデジタルカメラ一台があった。だが、よそから借りたカメラのほうが、もっと信頼できる気がした。汪淼はソファに置いてあった二台のカメラと、数本のモノクロフィルムを眺めながら少し考えた。その後、自分の高価なライカにカラーフィルムを装填し、食事を運んでいる妻にデジタルカメラを渡した。
「早く、何枚か撮ってくれ。さっきみたいに」
「なにしてるの あなた、顔色が……いったいどうしちゃったの」妻はおびえたように汪淼を見つめる。
「いいから。撮れ」
 妻は手に持っていた皿を置いて、汪淼のところにやってきた。瞳の中は先ほどのおびえに加えて、心配そうな表情も浮かんでいる。
 汪淼は妻に背を向けて歩いていくと、コダック製のデジタルカメラを食事中の六歳の息子に渡した。
「豆豆、お父さんのために撮ってくれ、ここを押せばいいんだ。そうだ。これが一枚目、また押してごらん、そうそう、もう一枚だ。こんなふうに撮っていってくれ、なにを撮ってもいいぞ」
 豆豆はすぐに操作に慣れた。面白がって、休みなく撮影しまくる。汪淼は身を翻し、ソファから自分のライカをとって、撮影をはじめた。父子ふたりはパシャパシャと狂ったように写真を撮っていたが、残された妻は次々に光るフラッシュの中、なすすべもなく立ちつくしていた。目には涙がにじんでいる。
「ねえ、最近、仕事のストレスが大きいのは知ってるけど、でもこんなこと……」 汪淼はライカの中の残っていたフィルムを撮り終えると、息子の手からデジタルカメラを奪いとった。ちょっと考えてから、妻に邪魔されないよう、ベッドルームに入ってデジタルカメラで何枚か写真を撮った。撮影するときはファインダーを覗き、液晶画面は見ないようにした。結果を知るのが怖かったからだ──遅かれ早かれ、知ることになるのだが。
 汪淼はライカのフィルムを持って暗室に入り、ドアをしっかりと閉じて作業にかかった。現像が終わり、フィルムをチェックする。手の震えがひどすぎて、ルーペを両手で持つしかなかった。フィルム上では、やはりゴースト?カウントダウンがつづいていた。
 汪淼は暗室を飛び出し、次にデジタルカメラの写真を調べはじめた。カメラ本体の液晶画面で再生すると、たったいま撮ったデジタル写真のうち、息子が撮ったものにはカウントダウンが現れていない。それに対し、自分で撮った写真にはカウントダウンがはっきりと映り込み、フィルムの場合と同じように数字が変化している。
 違うカメラを使ったのは、カメラもしくはフィルムから問題が生じたという可能性を排除するためだった。あまり考えもしないまま息子に撮影させ、その前には妻にも撮らせたが、それによって、さらに不可思議な結論が得られた。カウントダウンは、汪淼自身が撮った写真にだけ出現している
 汪淼は自や棄けになって、現像したフィルムの山をつかんだ。それはまるで、からみつく蛇か、なかなか外せない絞首台のロープのようだった。
 この問題を自力で解決できないのはわかっていた。でも、だれを頼ればいい 大学や研究所の同僚たちはダメだ。彼らも自分と同様、技術畑の人間で、テクニカルな思考回路の持ち主だ。今回の件は、技術の範囲を超えている。汪淼は直感的にそうさとっていた。丁儀はどうだろう。だが丁儀は、彼自身、精神的危機に直面している。汪淼が最後に思い出したのは〈科学フロンティア〉だった。彼らの中にはものごとを深くつきつめて考える思索家がいて、しかも科学技術に凝り固まらない、広い心を持っている。汪淼は、申玉菲シェン?ユーフェイに電話をかけることにした。
「申博士、少し相談があって、おたくに伺いたいのですが」汪淼は切羽詰まった口調で頼み込んだ。
「来れば」申玉菲はそれだけ言って電話を切った。
 汪淼は驚いた。たしかに申玉菲は、日ごろから必要なこと以外、口にしない。〈科学フロンティア〉の一部の人間は、彼女のことを女ヘミングウェイと呼んでいるくらいだが、いまの彼女は、なんの用かとさえたずねなかった。汪淼はそのことでほっとすべきなのか、それとも不安に思うべきなのかもよくわからなかった。
 汪淼は現像したフィルムをまとめて鞄に放り込み、デジタルカメラを携え、妻の不安な視線を背中に痛いほど感じながら家を出た。いつもなら自分で車を運転して行くところだが、今回はたとえ街の灯がさんさんと輝く都会でも、ひとりにはなりたくなかったので、タクシーを呼んだ。
 申玉菲は比較的新しい通勤路線の沿線にある高級別荘地に住んでいる。このあたりの外灯はかなり少ない。別荘は、釣りができるように魚が放流された小さな人工湖を囲むように建ち並び、とりわけ夜になると、田舎のような雰囲気があった。
 申玉菲は見るからに裕福な暮らしをしているが、汪淼はその資金源がなんなのか、いまだに知らなかった。以前の研究での地位や、現在の勤め先から考えて、それほど多くの資産があるはずはない。もっとも、彼女の家は、〈科学フロンティア〉の集会場になるだけの広さがあるとはいえ、豪華なところはまるでなく、会議室を備えた小さな図書館のような内装だった。
 リビングに入った汪淼は、申玉菲の夫、魏成ウェイ?チョンを見かけた。四十歳くらいで、誠実な知識人の雰囲気を漂わせている。彼について汪淼が知っているのは、名前くらいだった。申玉菲が紹介してくれたときも、名前しか聞いていない。魏成はどこにも勤めていないらしく、いつも家にいた。〈科学フロンティア〉の議論にも関心がないようで、家を訪ねてくる学者たちに対しても、まったく気にかけるようすがない。ただし、なにもしていないというわけでもなく、明らかに家でなにかを研究している。ほとんど一日じゅう考え込んでいて、だれかと顔を合わせるとうわのそらで挨拶し、階上の自室に戻る。魏成は一日の大半をそこで過ごしている。汪淼は一度、たまたま二階の部屋のドアが半開きになっていたとき、無意識に中を覗いたことがあった。魏成の部屋には驚くべきものがあった。ヒューレット?パッカード製のミッドレンジ?サーバだ。このマシンは汪淼の職場のナノテクノロジー研究センターにもあるから、見まちがえるはずがない。その深いグレーの筐きょう体たいは、数年前に発売されたIntegrityサーバ rx8620だ。百万元もする計算設備がなぜ自宅に置いてあるんだろう。魏成は毎日ひとりでそれを見ながら、いったいなにをしているのか。
「玉菲は上でちょっと用を済ませてから来るので、少しだけお待ちください」魏成はそう言って、こちらが気づまりにならないように配慮してか、汪淼ひとりを残して、上の階へと上がっていった。汪淼は待つつもりだった。だがいてもたってもいられず、魏成のあとを追って階段を上がると、魏成があのミッドレンジ?サーバが置いてある部屋に入っていくのが見えた。魏成は汪淼がついてきたのを見ても、気にするそぶりすら見せず、向かいの部屋を指して言った。「彼女はそこの部屋です。どうぞ」 汪淼がその部屋のドアをノックすると、施錠されていないドアがすこしだけ内側に開いて、隙間ができた。申玉菲がコンピュータの前でゲームをやっているのが見えた。驚いたのは、彼女がスーツを装着していることだった。スーツは、いまゲームマニアのあいだで大流行しているインターフェイスで、ヘルメット型の全方位ヘッドマウントディスプレイと触覚フィードバック全身スーツで構成されている。全身スーツは、ゲーム中の感覚刺激をプレイヤーに伝える。こぶしで殴られたり、刀で切られたり、炎に焼かれたり。酷暑や厳寒も体験できるし、肉体が風雪にさらされる感覚までリアルに再現する。
 汪淼は、申玉菲の真うしろに立った。ゲーム映像はヘッドマウントディスプレイ上に三六〇度映し出されるので、コンピュータのモニター上にはウェブブラウザが表示されているだけで、とりたてて派手な動きは見られない。そのとき、史強がやメールアドレスを見たら記録しておけと言っていたことを思い出して、汪淼は無意識のうちにアドレスバーを覗いた。ゲームのに使われている単語はとても風変わりで、すぐに覚えられた。
www.3body.netだった。
 申玉菲はヘルメットを外し、全身スーツを脱ぐと、細い顔には大きすぎる眼鏡をかけた。無表情にうなずきかけ、ひとことも発することなく、汪淼の言葉を待つ。
 汪淼は現像したフィルムをとりだし、不可解な事件について話しはじめた。申玉菲はじっと耳を傾けたが、フィルムに関しては、それを手にとってざっと眺めただけで、くわしく調べようとはしなかった。汪淼にとっては意外だったが、その一方で、申玉菲がこの事件についてまったくの無知ではないという確信がさらに深まった。途中で話をやめようとしても、申玉菲が何度もうなずいて話を促すので、汪淼は最後まで話しきった。申玉菲は、そのときになってやっと、汪淼がここに来てから初めての言葉を発した。
「あなたが率いているナノマテリアル?プロジェクトはどう」 とらえどころのないその質問は汪淼を当惑させた。「ナノマテリアル?プロジェクトそれと今回の事件はどんな関係が」
 申玉菲は無言だった。静かに汪淼を見つめるだけで、汪淼が質問に答えるのを待っている。これが彼女のコミュニケーションの流儀だった。余計なことはひとことたりとも口にしない。
「研究を中止しなさい」申玉菲が言った。
「なんだって」汪淼は自分の耳が信じられなかった。「いまなんと」 申玉菲は沈黙している。
「中止する 国家重点プロジェクトですよ」
 申玉菲はやはりなにも言わない。ただじっと静かに汪淼を見るだけだった。
「理由ぐらい教えてくれ」
「中止しなさい。やってみて」
「なにを知っている 言ってくれ」
「言えることは言った」
「プロジェクトは中止できない。不可能だ」
「中止しなさい。やってみて」
 ゴースト?カウントダウンに関する短い会話はここで終わった。そのあとは、どんなに促されても、申玉菲はなにも話さなかった。ただひとことだけ、こう言った。「さもないと、次はもっと面倒なことになる」
「いまわかった。〈科学フロンティア〉はあなたがたが言うような、たんなる基礎理論の討論グループじゃない。〈科学フロンティア〉と現実との関わりは、わたしが思っていたよりずっと複雑だ」と汪淼は言った。
「まったく逆。そんな印象を持つのは、〈科学フロンティア〉と現実の関わりが、あなたの思うよりずっと基礎的だからよ」
 ほかにどうすることもできず、汪淼は別れの挨拶もなしに立ち上がった。申玉菲は無言で敷地の門まで汪淼を送ると、タクシーに乗るまで見届けた。ちょうどそのとき、一台の車が走ってきて、門の前で停車した。ひとりの男が車から降りてきた。夜だというのにサングラスをかけている。別荘の灯りのおかげで、彼が何者か、ひと目でわかった。
 彼の名は潘寒ファン?ハン。〈科学フロンティア〉では有名人のひとりで、生物学者だった。長期にわたって遺伝子組み換え農作物を食べつづけると出産異常の可能性が高まると予測し、のちにそれが実証された。また、遺伝子組み換え農作物が生態系に災厄を引き起こすだろうという予測も公表している。空虚で人騒がせな言葉を弄して終末を語るインチキ予言者たちと違って、彼の予測は具体的でくわしく、ひとつひとつがどれも正確で、実際、そのとおりになっていた。予測の的中率があまりに高いので、彼は未来人だという噂まで流れるほどだった。
 彼はまた、中国ではじめての実験コミュニティを建設したことでも有名だった。自然に帰れ式の西洋的なユートピアグループと違って、彼の〝中華田園?コミュニティは、郊外ではなく、中国最大の都市のひとつにつくられている。コミュニティには一銭も財産がなく、食べものを含むすべての生活必需品は、都会のゴミから調達する。当初の予想を大きく裏切り、中華田園は潰れないどころか、あっという間に大きくなり、いまではもう、三千名を超えるメンバーがいる。しかもその人数には、不定期に体験生活をする人の数は入っていない。
 このふたつの成功をもとに、潘寒の社会思想は、日に日に影響力を増していた。科学技術革命は人類社会の一種の病変であり、技術の爆発的な発達は癌細胞の急速な拡散と同じく、宿主の体の栄養を枯渇させ、臓器を蝕み、ついには宿主を死亡させると、潘寒は主張する。そして、化石燃料や原子力発電などの〝攻撃的?テクノロジーを捨て去り、太陽光エネルギーや小規模水力発電などの〝融和的?テクノロジーを残すべきだと言う。都市の規模は少しずつ小さくし、人口は自給自足が可能な農村部に重点的に分布させ、融和的テクノロジーを基盤とする〝新農業社会?を構築することを訴えていた。
「彼はいる」潘寒は建物の二階を指さして、申玉菲にたずねた。
 申玉菲は答えず、潘寒の前に黙って立ちふさがっている。
「彼への警告だ。もちろんきみへの警告でもある。これ以上、われわれを追いつめるな」潘寒はサングラスを外して言った。
 申玉菲は潘寒になんの返答もせず、ただタクシーの中の汪淼に向かって、「行って。問題ないから」と言い、運転手に車を出すよう促した。タクシーが動き出し、汪淼にはもう、ふたりの会話が聞こえなくなった。うしろをふりかえると、遠ざかる家の前で、申玉菲はまだ潘寒と対峙していた。
 自宅に帰り着いたときには、もう夜が更けていた。汪淼は団地の入口でタクシーを降りた。そのとき、一台の黒いサンタナが急ブレーキをかけ、タクシーのすぐうしろにくっつくようにして停車した。車のウィンドウが下りると、煙草の煙が漂ってきた。史強シー?
チアンだ。たくましい体が、運転席にぎりぎりおさまっている。
「おい。汪教授、汪院士せんせい この二日間、どうしてた」「尾行していたのか よほど暇なんだな。ほかにやることはないのか」「よしてくれ。まっすぐそのまま通り過ぎりゃあよかったな。礼を欠いちゃいけないと思って、わざわざ車をとめて声をかけたんだぜ。それをそんなふうに悪くとるなんて」史強は独特のつくり笑いを浮かべ、ごろつきの顔になった。「で、どうだった いい情報はあったか 情報交換といこうじゃないか」
「言ったはずだ。きみとは関わりたくない。今後はもう近づかないでくれ」「わかったよ」史強は車のエンジンをかけた。「まるでおれが生活のために夜勤の残業代を稼いでいるみたいな言いぐさだな。こんなことなら、サッカーの試合を見逃すんじゃなかったよ」
 漆黒の夜の中へ消えていく史強のサンタナを見送りながら、汪淼は突如、不思議な感覚を覚えた。申玉菲との対話では得られなかった安心感と頼り甲斐が、あの史強にはある。
いまこのときを選んで史強が現れてくれたことに対して、汪淼は一瞬、ある種の感動さえ覚えた。
 知識階級の人間なら、汪淼が遭遇したような事件に巻き込まれ、未知なるものと遭遇した場合、表面的には冷静さを装ったとしても、実際にはどうしようもない恐怖に襲われるだろう。それに対して、史強の場合、もしそういうものに直面したとしても、怖がりさえしない。それこそが力だ。無知な者は恐れを知らないということではけっしてない。
 人類の無知は、進化の上では欠陥なのか、それとも利点なのか。多くの生物は、生まれながらにしてさまざまなことを知っている。先天的本能としての知識で言うと、クモの巣やミツバチの巣は、人類のもっとも優秀な材料科学者や構造学者さえ驚嘆するほどのレベルにある。進化の過程で、自然は人類に知識を与えることもできただろうし、先天的に宇宙の本質を知らしめることも可能だったはずだ。しかし、結局はそうしなかった。それにはなにか理由があるのかもしれない。
 宇宙の最後の秘密がすべて明かされたとき、人類はそれでも生存しつづけられるだろうか。自信満々にイエスを言える人間は、実際には浅はかだ。なぜなら、その秘密がなんなのか、まだだれも知らないのだから。だがもし、俗世間に溶け込んで生活する史強のような庶民の精神を、未知への恐怖が押しつぶそうとしても、汪淼や楊冬ヤン?ドンの場合と同じようにはうまくいかない。彼ら庶民は、未知なるものに対抗するたくましい生命力を有している。その力は、知識ではけっして得られない。
 汪淼が家に入ると、妻と息子はすでに眠りについていた。不安からか、妻は何度も寝返りを打ち、よくわからない寝言を言っている。きょうの夫の怪しげな行動は、妻にどんな悪夢を見せているのだろう。汪淼は睡眠薬を二錠服用してベッドに横になり、やっとのことで眠りに落ちた。
 夢は混沌としてとりとめのないものだったが、ひとつだけ確実に存在しつづけているものがあった。ゴースト?カウントダウンだ。汪淼はカウントダウンを夢に見るだろうと予想していた。夢の中で、空中に浮かぶカウントダウンを狂ったように叩き、ひっかき、噛みつきつづけたが、すべて徒労に終わった。どんな攻撃もただすり抜けていくだけで、カウントダウンは夢の中でも着実に進みつづける。汪淼は焦燥感にかられたが、やっとのことで夢から目覚めることができた。
 目を開くと、ぼんやり天井が見えた。窓の外の街明かりがカーテン越しに、ほの暗い光の輪を天井に投げかけている。だが、ひとつだけ、夢で見たものが、現実の世界まで追いかけてきている。ゴースト?カウントダウンだ。カウントダウンは、汪淼の眼前に出現していた。数字は小さいがとても明るく、焼きつくすような白い光を放っている。
 1180:05:00、1180:04:59、1180:04:58、1180:04:57…… 汪淼は寝室の薄暗がりを見まわしながら、自分がすでに目を覚ましていることを確認した。目を閉じても、カウントダウンは真っ暗な視界の中に存在しつづけている。まるで黒いビロードの上で輝く水銀のように見えた。ふたたび目を開き、さらに目をこすっても、カウントダウンは消えなかった。視線をどう動かしても、白く光る数字の列は依然として視界の中心を占めている。
 名状しがたい恐怖にかられて、汪淼ははね起きた。カウントダウンはなおもつきまとっている。ベッドから飛び降りると、窓に駆け寄ってカーテンを開けた。窓の外では、深く眠りについた街が、まだ煌々と光を放っていた。ゴースト?カウントダウンは、この壮大な夜景の上に、まるで映画の字幕のように浮かんでいる。
 息が詰まり、汪淼は思わず低い叫び声を洩らした。妻が驚いて目を覚まし、どうしたのかと心配そうにたずねた。汪淼は気持ちを落ち着かせながら、妻を安心させようと、なんでもないよと答えた。またベッドに横たわって目を閉じると、白く光るゴースト?カウントダウンを見ながら、まんじりともせずに夜の残りの時間を過ごした。
 朝、起き出してから、汪淼は家族の前ではつとめていつもどおりにふるまった。だが、妻は目ざとく異変に気づき、「目がどうかしたの 見えにくいの」とたずねてきた。
 朝食後、汪淼はナノテクノロジー研究センターに連絡して休みをとり、車で病院に向かった。その途中も、ゴースト?カウントダウンは眼前の現実に、無情に浮かびつづけていた。それは、自身の明るさを自動調整できるらしく、違った背景のどこにでも出現する。汪淼は昇りかけた太陽に目を向け、強い光の下でカウントダウンを一時的に消そうとやってみたが、無駄だった。悪魔のような数字列は、太陽の前では黒く変化し、かえって恐ろしく見えた。
 同仁医院は予約をとるのがたいへんだが、さいわい汪淼は、妻の同級生の有名眼科医に診てもらうことができた。最初は病状を告げずに、まず目の検査をしてもらった。医師はくわしく汪淼の両眼を調べたあと、なんの病変も見当たらない、すべて正常だと太鼓判を捺した。
「わたしの目には、いつもあるものが見えるんです。どこを見ても、それが見える」汪淼が話しているあいだも、カウントダウンの数字が医師の顔の前に浮かんでいる。
 1175:11:34、1175:11:33、1175:11:32、1175:11:31……「飛ひ蚊ぶん症しょうですね」医師はそう言って、処方箋を書きはじめた。「ぼくらの年齢では珍しくない。水晶体の濁りが原因です。治療はむずかしいが、さほど深刻な病気というわけでもない。ヨード液とビタミンを処方しましょう──それで症状が消えるかもしれない。とはいえ、そんなに期待しないように。じっさい、心配いりませんよ、視力そのものには影響しませんから。慣れて、気にならなくなるのがいちばんです」「飛蚊症……それは、どんなものが見えるんです」「人によっていろいろですね。小さな黒い点だったり、ァ】マジャクシみたいなものだったり」
「もしそれが数字の列だったら」
 医師は処方箋を書く手を止めた。「数字の列」
「そう。視界にずっとあるんです」
 医師は紙とペンをわきに押しやり、やさしい表情で汪淼を見て言った。「入ってきたとき、すぐにわかりましたよ、過労だと。こないだの同窓会で、李瑶リー?ヤオから聞いたけど、ご主人は仕事のストレスが大きいとか。ぼくらの歳になると、ほんとうに気をつける必要がある。若い頃と違って、体に無理が利かなくなっているから」「この症状は心の問題だと」
 医師はうなずいた。「一般の患者さんなら、心療内科の受診をすすめるところです。でもまあ、そんな必要はないでしょう。心配しなくてもだいじょうぶ。疲労がたまってるだけだから。何日か休んだらいい。李瑶と息子さんと──なんて名前でしたっけ──そう、豆豆か、家族三人で旅行にでも行くといいでしょう。じきに治りますよ」 1175:10:02、1175:10:01、1175:10:00、1175:09:59……「なにが見えていると思う カウントダウンだ それも一秒一秒、正確に進んでいる。それでもまだ心の問題だと」
 医師は寛容な笑みを浮かべたまま、「精神的な問題が視力にどの程度の影響を与えるかご存じですか 先月、ある女の子がうちを受診した。十五、六歳くらいかな。その子は、教室で、とつぜん視力を失った。まったくなにも見えなくなったんです。検査をしても、目そのものは正常だった。その後、心療内科で一カ月の心理療法をほどこしたら、ある日とつぜん目が治って、視力も?まで回復した」
 ここにいても時間の無駄だ。汪淼はそうさとって立ち上がったが、帰る前に、最後にたずねた。「わかった。目のことはもういいですが、ひとつだけ質問したい。外部からの操作で人間になにかを見させたという事例はありますか」 医師は考えながら言う。「なくはないですね。前に神舟19号の医療チームに参加したとき、宇宙飛行士の過去の報告で、船外活動のさい、存在しないはずの閃光を見たという事例があった。それ以前にも、国際宇宙ステーションの宇宙飛行士が同じような状況を報告している。これらはすべて、太陽活動が激しいとき、高エネルギー粒子が網膜に衝突したことによって生じた現象です。ただ、あなたが言うような、数字を見た例はない。まして、カウントダウンとなると……太陽活動が原因ではありえない」 汪淼は茫然と病院をあとにした。視界のカウントダウンはなおもつづいている。まるで自分のほうがカウントダウンの亡霊を追いかけて歩いているような気がする。夢遊病者のような目つきを他人に見られたくないためだけに、汪淼はサングラスを買ってかけた。
 汪淼は、ナノテクノロジー研究センターに出勤すると、メインラボに足を踏み入れた。
サングラスを外してから入ったが、同僚たちはみんな、汪淼を見ると、心配するような表情になった。
 ラボの中央では、メイン反応装置がまだ稼働していた。この巨大な装置の主要部分は、何本ものパイプがつながった、ひとつの球体だった。
 ここでは、〝飛刃?というコードネームを与えられた超強度のナノマテリアルが、ごく少量、すでに製造されている。しかし、それらのサンプルはすべて、分子構築法を利用したもの──つまり、ナノスケールの分子プローブを使って、レンガを積むように分子を一個ずつ積み重ねて製造したもの──だった。このメソッドには大量のリソースが必要で、同じ重さの、世界でもっとも高価な宝石を買うのと変わらない費用がかかり、およそ大量生産には適さない。
 現在、このラボでは、分子構築法のかわりに触媒反応を用いて、大量の分子が正しい配置でひとりでに積み重なるように導くことができないかを試している。そのテストが、メイン反応装置内でいままさに行われているところだった。この装置なら、さまざまな分子結合を使った多数の反応試験を高速で実施できる。もし仮に、これだけの数の組み合わせを従来の手作業で試したとしたら、百年かかっても終わらないだろう。だが、反応装置を使えば、それらがすばやく自動的に行われる。加えてこの装置は、実際の反応を数学的シミュレーションで補強できる。合成が一定レベルに達すれば、あとはコンピュータが、中間生成物をもとに数学モデルを構築し、反応実験の残りはデジタル?シミュレーションで代替できる。それによって、実験効率は大幅に上昇した。
 実験室長が汪淼の姿を見るなり、あわててやってきて、たったいま、反応装置にいくつかの不具合が発生したことを報告しはじめた。最近では、汪淼が出勤してくるたびにこういう報告がくりかえされ、まるで日課のようになっている。反応装置が稼働しはじめて一年以上になるため、現在、多くのセンサーの感度が下がり、それが測定誤差の増大につながっている。そろそろ反応装置を停止してメンテナンスしなければならない時期だった。
しかし、プロジェクトのチーフ?リーダーをつとめる汪淼は、分子結合の三セット目の試験が終わるまでは停止しないと言い張った。そのため、エンジニアたちは反応装置にさらに多くの修正装置を補完的につけ加えて対処してきたが、いまやそうした補完的な装置までメンテナンスが必要な状態になっていて、チーム全体がその対応で疲弊しきっていた。
 しかし、室長は慎重に言葉を選んで状況を報告し、装置のシャットダウン及び試験の一時的な休止についてはおくびにも出さなかった。以前にも何度かあったように、汪淼がまた怒り出すのを恐れている。そのため室長は、ただ問題点を列挙しただけだったが、その意味するところは明白だった。
 汪淼は顔を上げて反応装置を見た。まるで子宮のようだ。エンジニアたちが反応装置を囲んで忙しく働き、正常な稼働を維持しようと腐心している。その情景にも、ゴースト?
カウントダウンが重なって見えていた。
 1174:21:11、1174:21:10、1174:21:09、1174:21:08…… 研究を中止しなさい。汪淼の頭の中に、ふと、申玉菲の言葉が甦った。
「外部センサー?システム全体の更新にはどのくらいの時間がかかる」汪淼はたずねた。
「四、五日です」室長は、装置の稼働停止という希望の光がとつぜん現れたのを察知して、そのあとにあわててつけ加えた。「急いでやれば三日で大丈夫です。汪チーフ、わたしが保証します」
 自分はなにも、ゴースト?カウントダウンに屈したわけではない。装置は実際にメンテナンスを必要としている。だから、一時的に試験を休止する。ただそれだけのことだ。汪淼は心の中で自分にそう言い聞かせたあと、室長をふりかえって、カウントダウンの数字越しに彼を見ながら言った。「実験を休止してくれ。装置をシャットダウンして、メンテナンスを実施したまえ。きみが出したスケジュールにしたがって」「わかりました、汪チーフ。更新したスケジュール表をすぐにつくります。きょうの午後には反応を止められます」室長は興奮した口調で言った。
「いますぐ止めていい」
 室長は、見知らぬ他人を見るような目で汪淼を見たが、このチャンスを逃すのを恐れるかのように、すぐ興奮状態に戻り、電話をとって反応停止命令を出した。疲れ切っていたプロジェクト?チームの研究スタッフとエンジニアもたちまち活気づいて、百以上の複雑なスイッチを操作するシャットダウン手順を開始した。さまざまな監視モニターがひとつずつ暗くなり、最後にメインスクリーン上にシャットダウンが表示された。
 それとほとんど同時に、汪淼の眼前の秒読みも動きを止めた。数字は1174:10:07でストップし、数秒後、何度か点滅してから消えた。
 汪淼は、ゴースト?カウントダウンが去った光景を前に、水中からやっと浮かび上がったダイバーのように大きく息を吸い、長々と吐き出した。体じゅうの力がいっぺんに抜けて、その場にしゃがみ込んだが、脇でじっと見ている人間がいることにすぐ気がついた。
 汪淼は室長に向かって言った。「システムのメンテナンスは設備部の担当だ。きみたち実験チームはゆっくり休んでくれ。みんな働きづめだったのはわかっている」「汪チーフ?リーダーもお疲れでしょう。ここは張ジャンチーフ?エンジニアが見ていますから、家に帰ってゆっくりしてください」
「ああ。ほんとうに疲れたよ」汪淼は力なく言った。
 室長が行ってしまったあと、汪淼はラボから申玉菲に電話をかけた。呼び出し音が一回鳴っただけで、電話はすぐにつながった。
「いったいだれが黒幕なんだ それとも、いったいなにが」汪淼はたずねた。抑えた口調で冷静に質問したつもりだったが、声がうわずっていた。
 沈黙。
「カウントダウンが終わったら、なにが起こる」
 さらに沈黙。
「聞いているのか」
「ええ」
「超強度ナノマテリアルがどうして問題なんだ 高エネルギー粒子加速器じゃないぞ。ただの応用研究だ。それほど注目する価値があるのか」「なにが注目に値するかは、わたしたちが判断することじゃない」「現代科学の研究はチームが支えている。なのになぜわたしひとりだけに作用する」「鍵となる理論は、やはり個人が支えている。それに、あなたが自分の名声と権力を使って、この研究をまちがった方向に導き、失敗させることも期待できる」「そんな考えが愚かしいとは思わないのか まるで夢物語じゃないか」「いまはそう思っていても、あなたがそういう力の存在を信じたとたん、どんな科学的思考も不可能になる」
「だが、わたしはぜんぜん信じてないぞ」汪淼は大声をあげた。心の中の恐怖と絶望が、とつぜん狂ったような怒りに変わった。「こんな安っぽい手品で騙せるとでも思っているのか 技術の進歩を止められるとでも たしかに、いまはまだ手品のタネがわからないが、それは唾棄すべき手品師の舞台裏を覗いていないからだ」「どうしたら信じてもらえるのかしら」
「その手品師はどれだけ大きなことができるんだ」「逆に、どのくらいのスケールなら信じるの」
 申玉菲の問いに、汪淼は一瞬、言葉に詰まった。考えてもみなかった質問だったので、相手の罠にはまらないよう、冷静な対処を心がけた。
「その手には乗らないぞ。スケールを大きくしたところで、小賢しい手品であることに変わりはない 二年前のあの戦争でがやったように、ホログラムを空に投影することだってできる。強力なレーザーがあれば、月の表面全体に映像を映し出すこともできる そんなことなら、人類にだって可能だ。射撃手と農場主なら、人類には及びもつかないスケールで物質を操作できるはずだ たとえば──たとえば、カウントダウンを太陽の表面に映し出すとか」
 自分が吐いた言葉に自分で驚いて、汪淼は口を閉じることも忘れてしまった。われ知らず、言及するつもりのなかったふたつの仮説の主役の名を出してしまった。射撃手と農場主。自分自身も、ほかの犠牲者たちが落ちてしまった精神の罠に落ちる瀬戸際にいるような気がした。それでも、まだましなほうだ。もっと言ってはならないあのことは、まだ口にしていないのだから。
 主導権を奪われないために、汪淼はつづけて言った。「あんたたちの手品をすべて予想することはできない。しかし、太陽が相手でも、あんたたちの卑怯な手品師は、どうにかして、現実のように見える手品を演じてみせるかもしれない。ほんとうにわたしを納得させるデモンストレーションをやってみせるというなら、もっと大きなスケールで実演してくれ」
「問題は、あなたが耐えられるかどうかよ。あなたは友だちだから、楊冬がたどったのと同じ道をたどらないように、助けてあげたい」
 楊冬の名を聞いて、汪淼は思わず身震いした。だが、同時に沸き上がった怒りがすべてを一掃した。「挑戦を受けて立つのか」
「もちろん」
「どんなふうに」汪淼の声がたちまち弱々しくなる。
「近くにネットに接続されているコンピュータはある あるなら、いまから言うアドレスに、ブラウザでアクセスして。http://www.qsl.net/bg3tt/zl/mesdm.htmよ。開けた そのページをプリントアウトして、いつも持っていてね」
 汪淼が開いたウェブページは、ただのモールス符号対照表だった。
「これはいったい……」
「二日以内に、宇宙背景放射を観測できる場所を見つけてちょうだい。細かいことは、あとでメールを送るから、それを見て」
「いったい……なにをするつもりだ」
「ナノマテリアル研究プロジェクトはすでに休止されているけれど、いつか再開するつもり」
「もちろん。三日後だ」
「だったらカウントダウンも再開されるでしょう」「今度はどのくらいのスケールでカウントダウンを見ることになる」 長い沈黙。人類の理解を超えた力を代弁しているこの女性は、汪淼の逃げ道をすべて封じてしまった。
「三日後の──つまり、十四日の──午前一時から午前五時まで、全宇宙があなたのために点滅する」
 
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