三体 周の文王と長い夜
汪淼は丁儀に電話をかけた。相手が電話に出てからようやく、時刻が午前一時を過ぎていることに気づいた。
「汪淼だ。悪いね、こんな遅くに」
「かまいませんよ、どうせ眠れなかったんで」
「じつは……あるものを見て、きみの助けを借りたい。国内に宇宙背景放射を観測する機関があるか、知らないか」汪淼はほんとうのことを打ち明けたい欲望にかられたが、ゴースト?カウントダウンのことを考えると、いまはまだ、多くを知られないほうがいいと思い直した。
「宇宙背景放射 なんだってそんなものに興味を どうやらほんとうにトラブルにハマったようですね……楊冬の母親には会いました」
「ああ、すまない。忘れていた」
「いいんですよ。いまは、おおぜいの科学者が……なにかを見ている。あなたと同じようにね。みんな、うわのそらですよ。ただ、楊冬の母親にはやっぱり会ってもらったほうがいい。高齢ですが、ヘルパーも雇おうとしなくて。もし彼女の家でなにか必要なことがあったら、手伝ってあげてくれませんか。ああ、そうだ、宇宙背景放射のことなら、彼女に会って訊くのがいちばんですよ。定年退職するまでは天体物理学が専門で、国内のその手の研究機関には相当くわしいですから」
「わかった。じゃああした、仕事の帰りに寄ってみるよ」「ありがとうございます。先にお礼を言っておきますよ。助かりました。ぼくはもう、楊冬を思い出させる人とは会うことができないので」 電話を切ったあと、汪淼はパソコンの前に座り、問題のウェブページに表示された単純なモールス符号表をプリントした。いまになってようやく、カウントダウンのことから離れて、〈科学フロンティア〉と申玉菲シェン?ユーフェイについて冷静に考えられるようになった。おかげで、申玉菲がネットゲームをプレイしていたことを思い出した。申玉菲について、汪淼がひとつ確実に言えるのは、ひまつぶしにゲームで遊ぶような人間ではないということだ。電報のように簡潔な話しかたをする申玉菲に対して彼が抱いた唯一の印象は、おそろしく冷たいというものだった。その冷たさは、ほかの女性たちとのそれとは違って、仮面ペルソナというよりも、内側から外側に透けて見えているような冷たさだった。
汪淼は、それと意識しないまま、申玉菲のことを、なんとなくMS-DOSのような存在としてイメージしていた。廃れてひさしい、この文字キャラクタベースのァ≮レーティング?システムの黒い画面に浮かぶ、シンプルなC:\>の入力待ち表示プロンプトと、点滅するカーソル。キーボードからなにか入力すると、同じものがエコーバックされる。一文字も増えず、一カ所の変更もない。しかしいま、汪淼には、C:\>の背後に底なしの深淵があることがわかった。
あの申玉菲がゲームに興味を持ち、スーツを装着してプレイした 彼女に子どもはいない。スーツは自分用に買ったんだろうか。おかしな話だ。
汪淼は、ブラウザのアドレスバーにゲームのアドレスを入力した。思い出すのは簡単だった。は、www.3body.net。すると画面に、このゲームはスーツからのアクセスしかサポートしていませんという表示が出た。汪淼は研究センターの従業員娯楽室にスーツが置いてあったことを思い出し、無人のメインラボに走った。夜間通用口で鍵をもらい、娯楽室に向かう。ビリヤード台とトレーニングマシンの前を通り過ぎると、一台のパソコンのそばにスーツがあった。ようやくフィードバック全身スーツを着込んだ汪淼は、ヘッドマウントディスプレイを装着してから、パソコンを起動させた。
ゲームの中に入ると、汪淼は夜明けの荒野にいた。荒野はダークブラウンで、細かいところが見えづらい。彼方の地平線には白い光が細長く延び、頭上の空は瞬く星におおわれている。
そのとき、大きな爆発音が轟き、遠くで赤く輝くふたつの山が地面に崩れ落ち、平原全体が赤い光に包まれた。もうもうと舞い上がった塵や埃がようやく消えたあと、空と大地のあいだにふたつの巨大な文字が直立しているのが見えた。
三体
つづいて、登録画面が表示された。汪淼は〝海人ハイレン?という名で登録し、ログインした。
周囲は荒涼たる大地のままだったが、スーツのコンプレッサーが起動し、汪淼は体に吹きつける冷たい風を感じた。前方にふたつの歩く人影が現れた。夜明けの太陽の光を背にして、黒いシルエットになっている。汪淼はそちらに向かって走り出した。
近づいてみると、ふたりとも男性であることがわかった。どちらも、汚れた毛皮に覆われた丈の長い穴だらけのローブをまとい、幅が広くて短い青銅の剣を佩はいている。片方は、自分の背丈の半分ほどもある細長い木箱を背負っていた。こちらを向いた顔は、身にまとう毛皮と同様に汚れて皺だらけだが、それでもまなざしは力強く、朝日を浴びて瞳がきらきら光っている。
「寒いな」木箱を背負っている男が言った。
「ええ、ほんとうに寒いですね」汪淼は話を合わせた。
「いまは戦国時代、わたしは周の文ぶん王おうだ」「周の文王は、戦国時代の人物ではないはずですが」汪淼がたずねる。
「彼はいまも生きているよ、紂ちゅう王おうもね」もうひとりの、箱を背負っていないほうの男が言った。「ぼくは周の文王の従者。じっさい、ログイン名が〝周の文王の従者?なんだ。彼は天才なんだよ」
「わたしのログイン名は〝海人?です」汪淼は言う。それから、周の文王に向かって、「あなたが背負っているものはなんですか」
周の文王は直方体の木箱を背中から下ろし、ひとつの面を扉のように開いた。箱の中は、五つの層に分かれていた。朝日のかすかな光に照らされて、それぞれの層に、高さの違う細かい砂の山があるのが見えた。それぞれの層に、ひとつ上の層から、砂が糸のように流れ落ちている。
「砂時計だ。八時間ですべての砂が落下する。三回で一日になるが、わたしはいつも逆さにするのを忘れてしまう。従者に注意してもらう必要がある」と周の文王が言った。
「見たところ、ずいぶん長く旅をされているようですが。そんなに重たい時計を背負う必要があるんですか」
「では、どうやって時間を計る」
「携帯用の日時計なら、ずっと手軽ですね。あるいは、太陽を見るだけでも、おおよその時間を知ることができます」
周の文王と従者はたがいに顔を見合わせ、それから、こいつは莫迦かというように、同時に汪淼の顔を見た。「太陽 太陽を見て、どうして時間がわかる いまは乱紀だぞ」と周の文王。
汪淼はその不思議な言葉の意味を聞きたかった。従者が悲しげに言う。「ほんとに寒いな、寒くて死にそうだ」
汪淼も寒かったが、おいそれとスーツを脱ぐわけにはいかない。脱いでしまえば、ただちにシステムからアカウントをはじかれてしまう。「太陽が昇れば、多少はあたたかくなりますよ」
「予言者にでもなったつもりか 周の文王でさえ、未来は予言できぬというのに」従者は汪淼に向かって、莫迦にしたように首を振った。
「予言者じゃなくたって、あと一時間かそこらで太陽が昇ることはだれにでもわかるでしょう」汪淼は地平線の上のほうを指して言った。
「いまは乱紀だぞ」従者が言う。
「乱紀とは」
「恒紀でなければ、すべて乱紀だよ」周の文王が、なにも知らない子どもの質問に答えるかのように言った。
たしかに、遙か彼方の地平線の光はしだいに暗くなりはじめ、やがてすぐに消えてしまった。夜のとばりがふたたびすべてを覆い、空に星がきらめいた。
「いまは夕暮れですか、それとも早朝」汪淼はたずねた。
「早朝さ。早朝の太陽は、昇ってくるかどうかわからない。いまは乱紀だからね」 寒さが耐えがたいほどになってきた。「どうやら太陽が昇るまでには長い時間がかかりそうですね」汪淼はぼんやりとした地平線を震えながら指さした。
「どうしてそう思う わかるわけがないだろう、いまは乱紀なんだから」従者はそう言うと、周の文王のほうを向き、「姫き昌しょう殿、魚の干物をいただけませんか」と言った。
「もちろんだめだ」周の文王はきっぱりと言った。「わたしの食べる分だけでもぎりぎりなのだ。われわれの目的は、わたしがまちがいなく朝ちょう歌かへたどり着くことであって、おまえではない」
彼らが話しているあいだに、地平線のべつの場所に、また太陽の光が現れた。方位はわからないが、前回の光と同じ方角でないことはたしかだった。空が明るくなり、ほどなくこの世界の太陽が昇ってきた。それは青っぽい色をした小さな太陽で、光の強い月のようだったが、それでも多少はあたたかくなった気がしたし、大地の細部が見えるようになった。しかし、この白昼はかなり短く、太陽は地平線上に浅い弧を描いてすぐに沈んでしまい、夜の色と寒さがまたすべてを覆ってしまった。
三人は一本の枯れ木の前で立ち止まり、周の文王と従者が青銅の剣を抜いて枝を切り落とした。汪淼が薪を集めてひとまとめにしたところで、従者が火打ち鎌をとりだした。鎌を叩くと火花が散り、やがて炎が燃え上がった。汪淼が身に着けているスーツの前身頃もあたたかくなったが、背中はなおも氷のように冷たかった。
「脱水体を火にくべれば、もっと火力が強まりますよ」と従者が言う。
「黙れ。そのような非道は、紂王のみが為すことだ」「そのへんの道ばたに、脱水体は山ほど転がってたじゃないですか。どうせみんな破れてて、もとには戻れない。あなたの理論が正しいなら、燃やしたってかまわないはずだ。
食っちまってもいい。あなたの理論に比べたら、命のふたつや三つ、なんでもない」「莫迦を言うな、われわれは学者だぞ」
焚火が燃えつきてから、三人はまた歩き出した。会話がほとんどなかったため、システムはゲーム内の時間経過を加速させた。周の文王が背中の砂時計を下ろし、たてつづけに六回ひっくりかえすと、あっという間に二日が過ぎたが、あいかわらず太陽は一度も昇ることがなかった。そればかりか、地平線を見渡しても、光の気配すらない。
「太陽はもう二度と昇ってこないみたいですね」汪淼はそう言いながらゲーム?メニューを呼び出してライフゲージをチェックした。極度の寒さのせいで、ライフは着実に減りつつある。
「また予言者ぶって……」と従者が言い、今度は汪淼も声を合わせて決まり文句を締めくくった。「いまは乱紀だぞ」
しかし、それからほどなく、彼方の地平線に曙光が射した。空が急速に明るくなり、見る間に太陽が昇ってきた。今度の太陽は巨大だった。その半分が姿を現した段階で、太陽の視直径は、汪淼の視野に入る地平線の少なくとも五分の一を占めていた。熱波になぶられ、汪淼は生き返ったような気分になったが、周の文王と従者を見やると、悪魔でも見たかのような表情だった。
「急げ、日陰に隠れろ」従者が叫んだ。汪淼はふたりのあとについて走り、低い岩のうしろにまわった。岩がつくる影はどんどん短くなり、周囲の大地は燃えるように輝き出した。熱波を浴びて、足元の凍土はすぐに溶けはじめ、鉄のように堅かった表面が泥の海に変わる。汪淼の体からも汗が滴り落ちた。
巨大な太陽が頭上高く昇ると、三人は毛皮をかぶって頭を隠したが、なおも強い光は継ぎ接はぎした毛皮の隙間や穴を矢のごとく貫いてくる。三人は岩にへばりつくようにして反対側に場所を移し、影が動く先に身を隠した。
太陽が山のほうへ沈んでいったあとも、異常な蒸し暑さはつづいた。大汗をかいた三人は岩の上に座ると、従者は陰鬱に言った。「乱紀の旅は、地獄を歩くようなものだ。もう耐えられない。しかも、もう食べるものがない。魚の干物さえ分けてもらえず、脱水体を食うことも許されず、いったいどうしたら……」
「ならば、脱水するしかあるまい」周の文王が毛皮で顔をあおぎながら言った。
「脱水したあと、ぼくを捨てませんか」
「もちろん捨てるものか。朝歌まで運んでいくと約束しよう」 従者は汗に濡れたローブを脱ぎ捨てると、砂地に体を横たえた。地平線の下に沈んだ太陽のわずかな残光で、従者の体から水分が浸み出しているのが見えた。汗ではない。体の中のすべての水分が排出され、搾り出されている。その水分が合流して、砂地の上にいくつかの小さな流れができた。従者の体はぐにゃぐにゃになり、溶けた蠟燭のようにかたちを失っていく。
十分後、水分がすべて排出されると、従者の体は人のかたちをした柔らかい皮のように地面に広がっていた。顔の造作もぺちゃんこになり、目鼻の区別がはっきりしない。
「死んだんですか」汪淼はそうたずねながら思い出した。そう言えば、道中にも、人のかたちをしたこんな柔らかい皮のようなものがいくつも落ちていた。破れたものや、手足がちぎれたものもあった。あれが、従者が燃やしたいと言っていた脱水体だったのだろう。
「いいや」周の文王はそう言って、従者の皮を拾い上げると、表面についた砂をはたき、岩の上に置いて、きれいに巻きはじめた。それは、空気を抜いた皮製のボールのようだった。「しばらく水に浸せば、すぐにもとどおりになる。干し椎茸のようなものだ」「骨まで柔らかくなってしまうんでしょうか」
「そうだ。骨格はドライファイバーになる。おかげで持ち運びが楽だ」「この世界では、人間はみんな、脱水したり水で戻したりできるんですか」「もちろんだ。きみもできる。でなければ、乱紀では生きていけない」周の文王は巻物にした従者の皮を汪淼に渡し、「きみが持っていてくれ。道に放っておくと、だれかが焚きつけにしたり食べたりするからな」
汪淼は柔らかい皮を受けとった。軽い巻物のようで、脇にはさんでも、あまり違和感はなかった。
汪淼は脱水した従者を小脇に抱え、周の文王は砂時計を背負い、ふたりは苛酷な旅を再開した。それまでの数日と同様、太陽の運行はまったく不規則で、ひどく寒く長い夜が何日かつづいたかと思うととつぜん灼熱の昼が訪れたり、その反対だったりした。ふたりはたがいに助け合いながら、焚火のそばで寒さをしのぎ、湖に体を浸して灼熱をやり過ごした。さいわい、ゲーム内時間は加速できたので、一カ月を三十分に短縮することもできる。そのおかげで、乱紀の旅は、汪淼にとってかろうじて耐えられるものになった。
ゆっくりとした長い夜が砂時計の計測によれば一週間近くつづいたある日のこと、周の文王がとつぜん夜空を指さして叫んだ。
「飛星だ 飛星 それもふたつ」
実のところ、汪淼はこれまでもその奇妙な天体を発見していた。それは星よりも大きく、ピンポン玉サイズの円盤で、飛行速度が速く、星空を移動していることが肉眼でもはっきり確認できた。ただし今回は、それがふたつもあった。
「ふたつの飛星が現れたということは、そろそろ恒紀が始まるぞ」周の文王が言った。
「あれなら、前にも何度か見えたじゃないですか」「ああ。しかし、一度にひとつだった」
「一度に見えるのは、いちばん多くてふたつなんですか」「いや、三つ現れるときもある。だが、それが最大だ」「三つの飛星が現れるときは、恒紀よりもさらにすばらしい紀の前触れなんでしょうか」 周の文王は怯えたような表情になり、「なにを言う。三つの飛星……けっして現れぬよう祈ることだ」
周の文王の言葉は正しかった。待ち焦がれていた恒紀が、それからすぐにはじまった。
太陽の運行は規則正しくなり、昼と夜は、それぞれ十八時間ほどでじょじょに固定された。昼と夜が規則正しく交替し、気候も温暖になった。
「恒紀はどのくらいつづくんですか」汪淼はたずねた。
「一日から一世紀だ。どのくらいつづくかは、一定していない」周の文王は砂時計の上に座り、正午の太陽を見上げた。「記録によれば、西周では、かつて二世紀にもわたって恒紀がつづいたらしい。ああ、その時代に生きていた人たちはなんと幸福だったことか」「では、乱紀はどのくらいつづくんですか」
「言っただろう、恒紀以外はぜんぶ乱紀だ。恒紀でないときは乱紀、乱紀でないときは恒紀。それ以外はない」
「つまり、ここは規則のない世界だと」
「いかにも。文明は、気候が温和な恒紀でのみ発展する。たいていの時間、人類は集団で脱水し貯蔵しておく必要がある。長めの恒紀が到来したとき、また集団で再水化し、復活する。それから建設と生産にとりかかる」
「恒紀が到来する時期と、その持続期間はどうやって予測するんです」「そんな予測が正しくなされた試しはない。恒紀が到来したとき、国を再水化して復活させるかどうか、王が直感にもとづいて決断する。人間を再水化し復活させ、農家が種を播まき、都市や村で建設がはじまり、文明的な生活がスタートする──と、そのとき、恒紀が終わり、極寒と灼熱がすべてを滅ぼす。そんなこともしばしば起きる」周の文王はそう言うと、目を輝かせて汪淼を指差した。「さあ、これできみにも、このゲームのゴールがわかっただろう。知性と論理を駆使してあらゆる現象を分析し、太陽の運行の法則性を発見する。文明の存続はそれにかかっている」
「いままで観察してきたかぎりでは、太陽の運行に法則性などまったくありません」「そう思うのは、きみがこの世界の根本的な性質を理解していないからだ」「あなたは理解していると」
「ああ。だから朝歌へ行くのだ。紂王に正確な万年暦を献上するために」「しかし、ここまでの道中、そんな力があるようには見えませんでしたが」「太陽の運行規則の予測は、朝歌でしかできない。朝歌は陰と陽が出会う場所だからね。
そこで出た卦けだけが正確なのだ」
ふたりはまた、苛酷な乱紀を長いあいだ歩きつづけた。その途中、またちょっとのあいだ、短い恒紀が来て、過ぎ去った。そしてついに、ふたりは朝歌にたどりついた。
朝歌では、雷のような音がたえまなく鳴り響いていた。音の発生源は、朝歌のいたるところにある多数の巨大な振り子だった。錘おもりは巨大な石の塊で、二基の細い石塔のあいだにかかる高さ数十メートルの橋から、太いロープで吊り下げられている。
すべての振り子は、甲冑姿の兵士たちの集団の人力によって振れつづけている。彼らが意味のわからない掛け声をかけながら、巨大な石の錘を吊り下げたロープをリズミカルにひっぱることで、動きが遅くなった振り子の描く弧に新たな力を与えている。汪淼は、すべての振り子の動きが同期していることに気づいた。遠くから眺めると、畏怖の念を抱かせる光景だった。さながら、大地に無数の巨大な柱時計が林立しているように、もしくはとてつもない大きさの抽象記号がいくつも天から降ってきたかのように見える。
巨大な振り子に囲まれて、夜の闇の中に建っているのは、さらに巨大なピラミッドだった。高い山のようなこのピラミッドこそ、紂王の宮殿だった。汪淼は周の文王のあとについて、ピラミッドの台座にある低い扉をくぐった。扉の前では、守衛の兵士が数名、闇の中を幽霊のように静かに巡回していた。扉の先は、ピラミッドの奥深くへと通じる、長くてせまい、真っ暗なトンネルで、途中の壁にいくつか、たいまつがある。
「乱紀のあいだは、国民全員が脱水されているが、紂王だけはずっと覚醒し、生命を失った土地につきそっている」周の文王が、歩きながら汪淼に説明した。「乱紀を生き延びるには、こういう厚い壁でできた建物の中で暮らすしかない。地下に住むようなものだ。そうやって、極寒と灼熱を避けるのだ」
かなりの長さの道のりを歩いて、ふたりはようやく、紂王がいるピラミッドの中心にある大広間へとたどり着いた。といっても、さほど広くはなく、山の洞窟のようだった。壁に掛けられたたいまつの炎がゆらゆらと投げかける光のなか、色とりどりの毛皮をまとい、大きな台座の上に座っている人物こそ、まごうかたなき紂王その人だった。だが、汪淼が最初に注意を引かれたのは、紂王といっしょにいる、全身黒ずくめの人物のほうだった。その人物がまとう黒のローブは、大広間の濃い影に溶け込んで一体化し、透きとおるように白いその顔だけが虚空に浮かんでいるかに見えた。
「こちらは伏ふっ羲きだ」紂王は周の文王と汪淼に黒衣の人物を紹介した。文王と汪淼が前からここにいて、黒衣の人物があとからやってきたかのような口ぶりだった。
「彼はこう考えている。太陽は気まぐれな神で、目覚めているときの機嫌は予想もつかない。つまり、それが乱紀だ。太陽が眠っているときは、呼吸が一定している。つまり恒紀だ。そこで伏羲は、外のあの大きな振り子をつくることを提案した。日夜、止まることなく揺れ動くものを。あの振り子には、太陽神に対する強い催眠作用があり、長いあいだ、ゆっくりと眠らせることができるのだと言う。だが現在まで、太陽神はまだ起きたままだ。ときおり、うたた寝しているにすぎない」
紂王が手を振ると、臣下が陶器の壺を持ってきて、伏羲の前にある小さな石台の上に置いた。あとでわかったが、壺の中身は味つけしただし汁だった。伏羲は長いため息をつくと、陶器の壺を手にして、中身を飲み干した。ぐるぐるという音は、暗闇の深いところでとてつもなく大きな心臓が鼓動しているようだった。半分飲んだところで、残りの汁を体にかけると、陶器の壺を投げ捨てて、大広間の隅にあるかがり火の上に吊した大釜のところに行った。大釜のへりによじのぼり、中に飛び込んで、蒸気の雲をかき乱した。
「姫昌よ、座りたまえ。まもなく宴会だ」紂王はその大きな釜を指さし、周の文王に向かって言った。
「愚かな呪術ですね」周の文王は大釜のほうを向いて、軽蔑した口調で言った。
「そなたは太陽についてなにを学んだ」と紂王がたずねた。その目の中で、炎の輝きがちらついている。
「太陽は神ではありません、太陽は陽で、闇夜は陰。世界は陰陽のバランスで歩んでいます。その歩みをわれわれが左右することはできませんが、予測することはできます」周の文王はそう言うと、青銅の剣を抜いて、たいまつに照らされた床に大きな太極図を描いた。それから目のくらむようなスピードで、太極図のまわりに六十四の卦を書き出した。
その配置全体が円形カレンダーに似ていた。「大王さま、これこそが宇宙の法則コードでございます。この助けを借りて、わたしがあなたの王朝のために正確な万年暦を献上いたしましょう」
「姫昌よ、朕はすぐにでも知りたい。長い恒紀はいつになったらやってくるのだ」「ただいま、大王さまのために占ってさし上げましょう」周の文王はそう言うと、太極図の中央に歩いていって、そこにあぐらをかき、顔を上げて大広間の天井を見た。その眼差しは、高いピラミッドを突き抜けて星空を見ているかのようだった。両手の指が同時に複
雑な動きを見せ、高速稼働する計算機となる。静寂を破るのは、隅に置かれた大釜だけ。
さっきの黒ずくめのシャーマンが釜ゆでにされながら寝言をつぶやいているかのように、中のスープがグツグツと煮える音がしている。
周の文王は太極図の中央で立ち上がると、顔を天井に向けたまま言った。「次は四十一日間の乱紀です。それから五日間の恒紀が現れ、つづいて二十三日間の乱紀と十八日間の恒紀になりましょう。それから八日間の乱紀が訪れます。この乱紀が終われば、大王のご所望の長い恒紀がようやく到来いたします。この恒紀は三年と九カ月ほどつづきます。そのあいだの気候は温暖で、黄金の紀となりましょう」「まずは、そなたの最初の予測を検証してみよう」紂王は表情ひとつ変えずに言った。
汪淼の頭上から、ガラガラという大きな音が聞こえてきた。大広間の天井の石板がスライドして開き、正方形の開口部が現れた。べつの角度から眺めると、この穴は、ピラミッドの中心を貫くべつの縦孔に通じているのがわかった。縦孔の出口に、いくつかきらめく星も見えた。
ゲーム内時間が加速した。守衛の兵士二名が、周の文王の持ってきた砂時計を数秒に一度ひっくりかえして、八時間の経過を示した。天井の開口部が外の光によってランダムに明滅し、乱紀の陽光がふいに大広間に射し込んだかと思えば、あるときは月の光のように微弱な光が落ちた。またあるときは、すさまじく強烈な光が床に白く輝くまばゆい正方形を描き、すべてのたいまつの光を薄れさせた。
汪淼は、砂時計がひっくりかえされる回数を黙々と数えつづけた。百二十回ほどに達したとき、開口部から射し込む陽光の間隔が規則的になった。文王が予測したひとつめの恒紀が到来したのだった。
砂時計がさらに十五回ひっくりかえされてから、光のパターンがまたランダムになり、乱紀のはじまりを告げた。それからまた恒紀になり、また乱紀になった。それらの開始日時と持続時間は、小さな誤差はあったものの、周の文王の予測とほとんど一致していた。
最後の一回、八日間の乱紀が終了したあと、文王が予言した長い恒紀が始まった。
汪淼は砂時計が返される回数を数えつづけた。二十日が過ぎ、大広間に差す日の光はなお正確なリズムを刻んでいた。この時点で、ゲーム内時間の経過は等速に戻された。
紂王は周の文王にうなずきかけ、「姫昌よ、朕はそなたのために記念の石碑を建てようぞ。この宮殿よりも高く大きなものを」と言った。
周の文王は深々と頭を下げた。「わが大王さま、大王さまの王朝が目覚め、栄えますように」
紂王は石台の上に立ち上がり、世界全体を包み込むかのように両手を広げた。それから奇妙な、歌うような調子で叫んだ。「再水化……」 大広間にいた人々がこの号令を聞いて、われがちにとトンネルへ殺到した。周の文王の指示のもと、汪淼はそのあとについて、長い長いトンネルを抜け、ピラミッドの外へと向かった。トンネルを出ると、時刻はちょうど正午で、太陽が静かに大地を明るく照らしていた。あたたかな微風が吹いてきて、汪淼は春のにおいを嗅いだような気がした。周の文王と汪淼が、ピラミッドからそう遠くない湖のほとりにたどり着くと、湖面の氷はすでに溶けて、陽の光が風に揺れる水面にちらちらと反射していた。
最初にピラミッドから出てきた兵士たちの一群が、「再水化 再水化」と高らかに叫びながら、湖のほとりに建つ、穀物倉のような、大きな石造りの建物へと走ってゆく。
朝歌に来るまでの道中、汪淼は何度か似たような建物を遠くから目にしていた。周の文王が、それは〝乾燥倉庫?だと教えてくれた。脱水した者を貯蔵する、大型の倉庫らしい。
いま、兵士たちは湖のほとりの乾燥倉庫の石扉を開け、灰や塵にまみれた皮の巻物を中からとりだした。それぞれ、両手にいくつもの巻物を抱えて湖岸に向かい、巻物を次々に湖の中へと投げ入れた。巻物は水に触れるなり、たちまちほどけだし、すこし時間が経つと、紙を切り抜いたような薄っぺらい人型の皮が湖面に浮かびはじめた。ヒトの布きれは、それぞれすぐに水を吸って膨張し、厚みを備えたみずみずしい肉体へとじょじょに変化していった。これらの肉体はすぐに生命の息吹をとりもどし、それぞれ先を争うようにして、腰ほどの深さの湖から二本の足で立ち上がる。彼らは夢からはじめて覚めた人間のような目で、この風と美しい世界を凝視している。
「再水化」ひとりが声高に叫ぶと、すぐにまたべつの歓喜の声があがる。
「再水化 再水化」
彼らは湖の中から岸へと駆け上がり、素っ裸のまま乾燥倉庫へと走り、兵士たちと一緒に搬出作業に加わった。さらに多くの皮の巻物が湖の中に投げ込まれ、再水化して復活した人の群れがまた湖の中から走り出てくる。同様の光景が、もっと遠方にある湖や池でも見られた。世界が復活したのだ。
「ああくそ おれの指が……」
汪淼が声の主を見ると、さっき再水化したばかりの人間が湖の中に立ち、手を上げて泣き叫んでいる。その手は中指が欠けていて、傷口から湖に血が滴り落ちている。他の復活者は男の横をそのまま通り過ぎて、湖岸へとうれしそうに向かう。だれひとり、彼を気にかける者はいなかった。
「もうよせ、おまえはそれでじゅうぶんさ」通りがかりの復活者のひとりが言った。「腕も足もぜんぶなくしたやつだっているんだぞ。頭を食いちぎられて穴が空いてるやつもな。もしいま再水化しなかったら、みんな乱紀のネズミに食い散らかされて、二度と復活できなかったかもしれないぜ」
「おれたちがどのくらい脱水していたか知ってるか」ほかの復活者がたずねた。
「大王の宮殿に積もった砂埃の厚さでわかるさ。さっき聞いた話だと、いまの大王は脱水前の大王とは違うらしい。息子だか孫だか知らんが」 再水化は八日間つづいて、やっと完了した。この時点で、すべての脱水体が復活し、世界はまた新たに生を獲得した。この八日間のうちに、人々は二十時間という正確な周期でくりかえされる日の出と日の入りを享受した。温暖な春の気候のもとで沐浴をし、すべての人が心から太陽を賛美し、宇宙を掌握する諸神を賛美した。八日目の夜、大地のかがり火は、夜空の星々よりも密に輝いていた。ひどく長かった乱紀のあいだに荒廃した都市や村に、また灯火と喧騒が戻ってきた。過去の集団再水化のときと同じように、すべての人が夜を徹して歓喜に浸り、次の日の出のあとの新しい生活を迎え入れようとした。
しかし次の日、太陽は昇らなかった。
さまざまな計時装置が日の出の時刻を過ぎていることを示したが、地平線はどの方角もすべて漆黒のままだった。さらに十時間が過ぎても、太陽が昇ってくる気配はなく、かすかな光さえも見えなかった。一日が過ぎ、果てしない夜が続いた。二日が過ぎると、巨大なてのひらが暗闇の中で大地を押しつぶそうとしているような寒さになった。
「大王さま、どうか信じてください。これはつかのまのことにすぎません。わたしはこの宇宙の陽ようが集まるのを見ました。太陽はすぐに昇ります。恒紀と春はつづくのです」ピラミッドの大広間で、周の文王は紂王の座る石台の下にひれ伏して訴えた。
「大釜に火を入れるとしよう」紂王がため息をついて言った。
「大王さま 大王さま」大臣のひとりがトンネルからこけつまろびつ出てくると、涙声で叫んだ。「天に……天に飛星が三つ出ております」 大広間にいた全員が茫然とした。空気が凍りつくなか、ただ紂王だけが表情を変えず、これまでずっと相手にしていなかった汪淼のほうを向いて言った。「おまえはまだ、三つの飛星がなにを意味しているのか知るまい。姫昌よ、教えてやれ」「それは、長くつづく極寒の歳月を意味する」周の文王が大きなため息をついて言った。
「石さえも凍りついて粉々に砕けてしまうほどの寒さだ」「脱水……」紂王はまたあの奇妙な、異国的な節をつけて、歌うように叫んだ。じつのところ、ピラミッドの外ではもうとっくに、人々が続々と脱水しはじめていた。ふたたび乾燥人間となり、これから到来する長い長い夜をやり過ごそうとしている。彼らのうち運のよい者はふたたび乾燥倉庫へと搬入されたが、大量の脱水体が荒野に捨て置かれた。
周の文王はゆっくりと立ち上がり、大広間の隅に吊された大釜のほうに歩き出した。釜の下では、すでに炎が轟々と燃えさかっている。文王は釜によじのぼり、飛び込む前に、しばし動きを止めた。もしかしたら、煮崩れた伏羲の顔がスープの中で笑っていたのかもしれない。
「弱火にしておけ」紂王が力ない声で言った。それから、ほかの人間たちに向かって、「そうしたければログアウトしろ。この段階まで来たら、ゲームはもう楽しくないぞ」 大広間の洞窟のような出入口の上に、赤く光るマークが現れた。大広間にいたプレイヤーたちは、ぞろぞろとそちらへ歩いていく。汪淼もそのあとにつづいた。長い長いトンネルを歩いてピラミッドの外に出ると、闇夜に大雪が降っていた。骨に突き刺さるような寒さに、汪淼は身震いした。モニターの隅には、ゲーム内時間がまた加速したことが表示されている。
それから十日間、雪は小止みなく降りつづけた。いまでは雪片は、闇が凝固したかのように、大きく重くなっている。だれかが汪淼の耳もとでささやいた。「この雪は凍らせた二酸化炭素──ドライアイスだよ」振り向くと、周の文王の従者がそこにいた。
さらに十日たつと、雪片は薄く透明になっていた。ピラミッドのトンネルの入口から洩れるたいまつのかすかな光を浴びて、雪は空を舞う雲母のかけらのように、淡いブルーの輝きを放った。
「この雪は、凝固した窒素と酸素だ。大気が凍りはじめている。ということは、絶対零度が間近だな」周の文王の従者が言った。
ピラミッドは雪に埋もれはじめていた。積もった雪は、最下層が水の雪、中間層がドライアイスの雪、上層が窒素酸化物の雪だった。夜空は異常なほど澄みわたり、星々の群れはまるで銀色の火炎のようだった。その星空をバックに、数行の文字列が出現した。
この夜は四十八年間つづき、文明は極寒の中で崩壊しました。この文明は、崩壊前に、戦国期にまで到達していました。
文明の種子はまだ残っています。それはいつかふたたび発芽し、『三体』の予測不能の世界で育ちはじめるでしょう。またのログインをお待ちしています。
ログアウトする前、汪淼が最後に目にしたのは、夜空の三つの飛星だった。それらは一カ所に接近し、たがいの周囲をまわりながら、宇宙の深淵をバックに、奇妙なダンスを踊っていた。