33 智子ソフォン
三体時間にして八万五千時間地球時間で約八?六年後。
元首が三体惑星全土のすべての執政官を集める緊急会議を招集した。異例のことだった。なにか重大な事件が発生したのだ。
三体艦隊は二万時間前に出航した。彼らは目的地のおおよその方向は知っていたものの、距離はまったく知らなかった。もしかすると、目的地は一千万光年の彼方かもしれないし、銀河系の反対の端という可能性さえある。茫々たる星の海を渡る、絶望的な遠征だった。
執政官会議は巨大振り子モニュメントのもとで行われた。汪淼はこのくだりを読んで、ゲーム『三体』での国連総会を自然と思い出していた。実際、巨大振り子モニュメントは、ゲームに登場するもののうち、三体世界に実在する数少ないひとつである 元首がなぜここを会議の場所に選んだのか、ほとんどの会議参加者にとって謎だった。
乱紀はまだ終わっていないため、いま空に昇りかけている小さな太陽は、いつ沈んでもおかしくない。異常な寒さをしのぐべく、参加者は完全密封型の電熱服の着用を余儀なくされていた。巨大な金属製の振り子はすさまじい迫力で振れつづけている。冷たい空気を切り裂く小さな太陽の光を浴びて、振り子の影が長々と大地に伸び、まるで雲を衝く巨人が歩いているように見えた。大勢が注視するなか、元首は巨大振り子の足もとまで行くと、赤いスイッチレバーを引いた。それから、執政官たちに向かって言った。
「たったいま、巨大振り子の電源を切った。振り子の動きは空気抵抗によってしだいに減衰し、やがて停止する」
「元首閣下、なぜそのようなことを」ひとりの執政官がたずねた。
「巨大振り子の歴史上の目的は、周知のとおり、神を催眠術にかけることだった。しかし、神が覚醒していることは、三体文明にとって有利であると判明した。なぜなら、神はわれわれを守りはじめたからだ」
執政官たちは押し黙り、元首の言葉の意味をじっと考えている。巨大振り子が三往復したのち、だれかがたずねた。「地球文明は返信してきたのですか」 元首がうなずく。「うむ。半時間前に報告を受けた。例の警告に対する返答が届いた」「そんなに早くですか 警告メッセージが送信されてから、まだ八万時間あまりしか経っていません。ということはつまり……」
「つまり、地球文明との距離が、わずか四万光時だということを意味する」「ここからもっとも近い、あの恒星だということでしょうか」「しかり。さっき言ったとおり、神は三体文明を守護している」 恍惚とした喜びが会場に広がったが、感情表現が抑圧されているため、彼らは噴火寸前の火山のような状態になっていた。こういう脆弱な感情の爆発は危険だ。そこで元首は、すぐさま火山に冷水を浴びせた。
「早急にその恒星へ向かうよう、三体艦隊に命じた。しかし、状況は諸君が想像するほど楽観できるものではない。現在入っている情報から判断すると、艦隊はいま、墓場に向かっている」
元首のこの言葉を聞いて、執政官たちは一瞬で冷静になった。
「この意味がわかる者は」元首がたずねる。
「はい、元首閣下」科学執政官が発言した。「われわれは地球からの最初のメッセージをくわしく研究しました。その中で、もっとも注目すべきは、彼らの文明史です。地球人類は狩猟時代から農耕時代まで、十数万地球年を費やしています。また、農耕時代から蒸気機関時代までは、数千地球年を費やしました。しかし、蒸気機関時代から電気時代までは、わずか二百地球年です。その後の数十地球年で、彼らは原子力と情報化の時代にまで到達しました。つまり、地球文明の技術的発展は、恐ろしいほど加速しているのです それに対し、三体世界はどうでしょう。われわれの現文明も含め、すでに存在した文明が二百ありますが、このような加速度で発展したものはひとつとしてありません。すべての三体文明の科学技術はなだらかに、ときには減速しながら進歩してきたのです。三体世界のそれぞれの技術時代は、どれも基本的には同じような、長い発展過程が必要でした」 元首はうなずいた。「つまり、いまから四百五十万時間後、三体艦隊が地球の属する星系に到着したとき、地球文明の技術レベルは、加速度的な発展の結果、われわれの文明をはるかに凌駕してしまっているだろう。三体艦隊は長い航行の途中、ふたつの小惑星帯も通過しなければならない。到着時には激しく損耗し、多くの艦船が失われて、半数しか太陽系に到着できない可能性も高い。その場合、三体艦隊は地球文明の前に、もろくも壊滅することになる。われわれは征服しにいくのではなく、死ににいくのだ」「もしそれが事実なら、元首閣下、もっと恐ろしい事態も考えうるのでは」軍事執政官が言った。
「さよう。容易に想像できるとおり、三体文明の場所を知った以上、地球は未来の脅威をとりのぞくべく、われわれの星系に星間艦隊を差し向け、攻撃してくるだろう。膨張した太陽がこの惑星を呑み込む前に、三体文明は地球人に滅ぼされてしまうかもしれない」 燦然と輝いていた未来が、突如として暗澹たるものに変わり、会場はしばらく沈黙に包まれた。
「したがって、次になすべきことは、地球文明の科学的発展を抑えることだ。最初のメッセージを受信したときから、われわれはそのための計画を立案しはじめた。いまのところ、この計画の実現にとって、有利な条件が見つかっている。われわれがついさっき受信した返信は、地球文明を裏切った人間が送信したものだった。ということは、地球文明内部には、多くの疎外された勢力が存在していると信じる根拠になる。われわれは、そうした勢力を最大限に利用しなければならない」
「元首閣下、ことはそう簡単ではありません。地球との通信は糸のように細く、たった一度のやりとりに八万時間以上を要します」
「しかし、忘れるな。われわれの場合と同様、異星文明が存在するという事実は、地球社会にとてつもない衝撃を与え、彼らの文明の内部に大きく深い影響をもたらすだろう。それゆえ、地球文明内部の疎外された勢力は、将来的には集結し、拡大すると予測できる」「彼らになにができると 破壊工作ですか」
「四万時間のへだたりがある以上、戦争やテロにおける従来型の戦術は、どれも向こうに回復の時間を与えることとなり、戦略的意義が乏しい。これほどの長い時間をへだてた異星文明を向こうにまわして、その発展を効果的に妨害し、武装解除させるには、方法はただひとつしかない。彼らの科学を壊滅させることだ。われわれがすでに策定している三つの計画については、科学執政官のほうから簡単に紹介してもらおう」「第一の計画は、コードネーム〝染色?です」科学執政官が説明しはじめた。「科学技術の副作用を強調することで、大衆が科学に対して恐怖と嫌悪を抱くように仕向けます。たとえば、われわれの社会で技術の発展にともなって生じる環境問題ですが、これは地球上にも存在するはずです。染色計画はこの要素をフルに活用します。第二の計画は、コードネーム〝奇跡?です。地球世界に奇跡を顕現させます。つまり、地球人にとって超自然的としか思えない力を見せるのです。この計画は、いくつかの奇跡を通じ、科学の論理では説明できない、いつわりの宇宙をつくりだすことが目的です。そのようなまぼろしを一定期間でも維持できれば、地球世界では、三体文明が宗教的崇拝の対象となるかもしれません。地球の思想界では、非科学的な思想や方法論が科学的な論理を圧倒し、すべての科学的な思考体系を瓦が解かいさせるでしょう」
「そんな奇跡をどうやって実現する」
「奇跡が奇跡となるかなめは、地球人に絶対にタネを見破られないことです。そのため、地球上の疎外されている勢力に対し、地球文明の水準よりも高い技術をこちらから供与する必要があるでしょう」
「それは危険すぎる。その技術をだれが最後に手に入れるか、わかったものではない。危険な火遊びだ」
「もちろん、どのレベルの技術によって奇跡を生み出すか、より一層の研究と分析が必要ですが……」
「ちょっと待っていただきたい、科学執政官」軍事執政官が立ち上がって言った。「元首閣下、わたしにも意見を述べさせてください。人類の科学の発展を止めるという観点からは、この計画はほとんど無益だと思われます」
「しかし、なにもしないよりはまだましではないでしょうか」科学執政官は、元首が答える前にみずから反論した。
「かろうじて」軍事執政官は軽蔑したように言った。
「わたしもその考えに同意する」元首は軍事執政官に向かって言った。「染色と奇跡のふたつの計画は、地球の科学的発展にとって、ごく些細な障害をもたらすだけだろう」それから、すべての会議参加者のほうに目を向けて、「われわれは、地球の科学的進歩を完全に停滞させ、現在のレベルにとどめるため、決定的な行動をとる必要がある。その目標にとって、もっとも重要な点に話を絞ろう。すなわち、科学全般の発展は、基礎科学の進歩によってもたらされるということだ。基礎科学の基盤は、物質の本質を探求することにある。もしこの分野でなんの発展もなければ、科学技術全般において、重大な発見や進歩がなされることはない。われわれのこの方針は、実際、地球文明だけに適用されるのではなく、三体文明が征服しようとするすべての目標に関係する。地球からはじめて情報を受信する前から、われわれはずっと、そのために努力してきた。しかし最近では、その努力をさらに加速させている。その象徴があれだ」元首は空を指さした。「諸君、あれはなんだと思う」
執政官たちがその方向を見上げると、宇宙にひとつの丸いリングが見えた。太陽の光を浴びて、金属的なきらめきを発している。
「星間艦隊第二陣を建造するためのドックでは」
「いや、あれは、現在われわれが建造している巨大粒子加速器だ。星間艦隊第二陣の建造計画は白紙に戻された。その資金はすべて智子計画プロジェクト?ソフォンに使われている」
「智ち子しプロジェクト」
「そうだ。ここにいる者の少なくとも半数は、この計画について、いまはじめて聞いたはずだ。このあと、科学執政官から全員に説明してもらう」「聞き及んではおりましたが、ここまで進んでいたとは」工業執政官が言う。
文部執政官も口を開いた。「わたしも存じておりましたが、いままでは神話のように思っていました」
「智子プロジェクトとは、簡単に言えば、陽子をスーパーインテリジェントなコンピュータに改造するという計画です」科学執政官が説明をはじめた。
「それは、前々から噂されている科学的な夢物語だ。われわれの大部分が、一度は聞いたことがある」農業執政官が発言する。「しかし、ほんとうにそれが実現できるのか 突拍子もない話だ。たしかに、三体世界の物理学者は、ミクロスケールの世界の十一次元のうち、九次元まで操作できる。それでも、やはり信じられない。陽子にピンセットを突っ込んで、大規模集積回路を構築できると」
「もちろん、そんなことは不可能です。ミクロ集積回路のエッチングは、マクロスケールの、それも巨視的な二次元平面上でしか行えません。したがって、陽子を二次元に展開する必要があります」
「九次元構造を二次元に展開する そのために必要なエリアは、どれほどの大きさになる」
「たいへんな大きさです。いずれ、その目で見られますよ」科学執政官はそう言ってにっこりした。
時間が飛ぶようにすぎていく。あれから六万時間が経過した。宇宙空間で巨大加速器が完成してから二万時間を経て、陽子の二次元展開が、三体惑星の静止軌道上で行われようとしていた。
うららかで気候のおだやかな、恒紀の一日だった。空はきれいに晴れ渡り、八万時間前に艦隊が出航したときと同じように、三体世界の人々はみな空を仰ぎ、巨大なリングを眺めていた。やがて、元首とすべての執政官が、巨大振り子モニュメントの下へとふたたび集合した。振り子はずっと前から止まったままだった。巨大支柱のあいだに固定された振り子は、まるで安定を象徴する巨石のように見える。こうして見ると、かつて動いていたとはとても信じられない。
科学執政官は、陽子を二次元に展開するよう命令した。宇宙では、リングのまわりに三つの立方体が浮かんでいる──加速器にエネルギーを供給する核融合発電機だ。長い翼のようなその放熱板が、しだいに暗紅色の光を発しはじめた。科学執政官は元首に対し、現在、展開が進行していますと報告した。人々は熱心に宇宙の加速器を見つめていたが、なにも起こらないようだった。
十分の一時間後、科学執政官がイヤピースを耳に押しつけ、じっと聞いてから、こう報告した。「元首閣下、遺憾ながら、展開は失敗しました。一次元余分に、次元を減らしてしまったようです。陽子は一次元になってしまいました」「一次元 一本の線か」
「はい。一本の無限に細い線です。理論的には、長さは一?五光年に達するはずです」「星間艦隊ひとつ分のリソースを費やして、得られたのはこんな結果か」軍事執政官が嘲あざけるように言った。
「科学実験には、問題点を洗い出すためのプロセスが不可欠です。結局のところ、陽子の展開を試みたのは、これがはじめてなのですから」 人々は失望を胸にして帰っていったが、実験はまだ終わっていなかった。一次元に展開された陽子は、静止軌道上に永遠に残ると考えられていたが、太陽風によって生じた摩擦のため、糸の一部が大気圏内に落下しはじめた。六時間後、戸外にいるすべての三体人は、空中の奇妙な光に気づいた。蜘蛛の糸のように細い光が、瞬くように消えたりまた現れたりしている。展開された一次元の陽子が重力にひっぱられて落ちてきたのだということを、人々はニュースを通じて知った。糸はかぎりなく細いが、それでも可視光線を反射する場を発生させるため、肉眼で視認することができた。原子でつくられていないものが目撃されたのは、史上はじめてのことだった──絹糸のような線は、陽子一個のごく小さな一部でしかない。
「これはまったく鬱陶しいな」元首は、ひっきりなしに顔を手で撫でながら言った。元首は、科学執政官とともに、政府ビルの広い階段に立っている。「いつも顔がかゆくなる」「閣下、それは心理的なものにすぎません。すべての糸を合わせたとしても、その質量は、陽子一個分ですから、マクロスケールの世界に対してなにか作用することは不可能です。もちろんなんの実害もなく、存在していないも同然です」 しかし、空から落ちてくる糸はどんどん増え、密になってきた。高度が下がるにつれて、小さなきらめく光が空気を満たした。太陽や星々は、銀色の光背ハローに包まれているように見える。それらの糸は屋外にいる人々にからみつき、歩くと無数の光の線が背後にたなびいた。屋内に戻ると、照明を反射して線がきらきら光り、動いたとたん、その動きによって乱された室内の空気の流れが、反射光の糸によって描かれた。一次元の糸は、光を浴びると目に見えるというだけで、たしかになんの感触もなかったが、それでも人々に不快感を与えた。
一次元の糸の奔流は、それから二十時間あまりつづいてから、ようやくやんだが、糸がすべて地面に落ちたためではなかった。糸の質量は想像を絶するほど小さいが、ゼロではないから、ふつうの物体と同じように重力加速度に支配される。しかし、大気圏内に入ると、気流に支配されて、地面にはいつまでも落ちてこない。一次元に展開されたあと、陽子内部の強い核力は大幅に弱まったため、糸はもろくなった。しだいに糸はばらばらになり、細かい断片に分かれて、反射する光が肉眼では見えなくなった。そのため、消え失せたように思われたが、一次元の糸の断片は三体世界の大気中に永遠に漂いつづけている。
五十時間後、陽子を二次元に展開する、二度めの実験が実施された。地上に集まった人々は、ほどなく奇妙なものを目にした。核融合発電機の放熱板が赤く輝きはじめたかと思うと、加速器のそばに、多数の巨大な物体が出現した。それらはすべて、球、四面体、立方体、円錐など、規則正しい幾何学的なかたちをした立体だった。表面は複雑な色合いだが、じっくり観察してみると、実際は無色だった。幾何学的立体群の表面は完全な鏡面で、人々が目にしたのは、三体世界の地表の歪んだ反射像だったのである。
「今度は成功したのか」元首がたずねた。「あれは、二次元に展開された陽子なのか」「元首閣下、今回も失敗です」と科学執政官が答えた。「加速器管制センターから、たったいま入った報告によれば、今回は、展開する次元がひとつ多すぎて、陽子は三次元に展開されてしまいました」
鏡面に覆われた巨大な幾何学立体群はどんどん大量に出現しつづけ、形状はさらに多様化した。リングや十字、メビウスの輪のようなかたちの帯まである。すべての立体は、加速器の位置から離れて、空中を漂っていった。約〇?五時間後には、これらの立体が空をほとんど埋めつくした。まるで、巨人の子どもが、積み木の入った箱の中身を空にぶちまけたかのようだった。鏡面が反射する光で、地上に降り注ぐ光は倍になったが、その強さはたえず変化した。巨大振り子の影はちらちらゆらめきながら動いている。次に、すべての立体が変形しはじめ、熱で溶けたかのごとく、規則的な形状を少しずつ失っていった。この変形はしだいに加速し、変化した形状もますます複雑になってきた。いま空にあるかたちは、もはや積み木には似ていない。どちらかと言えば、ばらばらにされた巨人の手足や、その体からとりだされた内臓のようだ。かたちが不規則なので、それらが反射する光は前よりやわらかになったが、鏡面の色合いは前よりもさらに奇妙で、予測できない。
空にあふれたこれら雑多な三次元物体の大群の中で、地上の観察者たちがとくに目を引かれたものがあった。最初は、それらがたがいにそっくりなかたちをしているというだけの理由だった。しかし、じっと眺めているうちに、人々はそれがなんなのかに気づき、三体世界に恐怖の波が広がった。
それらはすべて、目だった。
三体人が実際にどんな目をしているか、われわれは知らないが、どのような知的生命体であろうと、自分たちの目にそっくりなものに対しては、まちがいなく敏感に反応するはずだ
元首は、冷静さを保っている数少ないひとりだった。元首は科学執政官にたずねた。
「原子よりサイズの小さい粒子の内部構造を、いったいどれほど複雑にできる」「それは、何次元の視点から観察するか次第です。一次元の視点から観察すれば、ただの点──一般人が思い浮かべる粒子と同じです。二次元もしくは三次元の視点から見れば、粒子は内部構造を持つものとなりはじめ、四次元から見れば、粒子は広大な世界です」「陽子のような亜原子粒子に対して〝広大な?という言葉が使われると、どうにも違和感があるな。とても信じがたい」
科学執政官は元首の言葉を無視し、半分ひとりごとのように先をつづけた。「より高次の次元では、粒子内部の複雑さと構造の数は劇的に増加します。かならずしも正確ではありませんが、スケール感をわかっていただくために言えば、たとえばこんな具合です。七次元の視点から見た粒子は、三次元空間における三体星系に匹敵する複雑さを持ち、八次元になると、ひとつの粒子が天の川銀河全体と同等の存在になります。九次元にまで上がると、ひとつの亜原子粒子の内部構造と複雑さは、全宇宙に匹敵します。それ以上の高次元については、われわれの物理学はまだ探究できていませんから、複雑さの度合いを想像することすらまだできません」
元首は空に浮かぶ巨大な目を指さした。「あれは、微小宇宙ミクロコスモスに知的生命が存在し、展開された陽子の中にそれが含まれていることを示しているのか」「われわれの〝生命?の定義は、おそらく高次浴∵クロコスモスにはあてはまらないでしょう。より正確には、その宇宙には知性もしくは知恵が含まれていると言うことしかできません。この可能性を科学者たちははるか以前から予測していました。こんなに複雑で広大な世界に、もし知性に似たものがなにも現れていなかったとしたら、そのほうが不思議です」
「彼らはどうして目に変化してわれわれを見ているのだ」元首は空を見上げながらたずねた。宇宙の目は、美しい、本物そっくりの彫刻のようで、そのすべてが、眼下の惑星を無関心に見下ろしている。
「ただ、みずからの存在を示したいだけかもしれません」「ここに落ちてくることはありうるのか」
「まさか。元首閣下、どうかご安心ください。万一、落下した場合でも、あれらの巨大な立体群すべての質量を合わせても、陽子一個分にすぎません。前回の、一次元に展開された細い糸と同じく、われわれの世界になんの影響もおよぼすことはありません。必要なのは、奇妙な眺めに慣れることだけです」
しかし今回、科学執政官はまちがっていた。
空を埋めつくす立体群のうち目のかたちをしたものは、他の立体よりも高速で移動し、ひとつの場所に集まりはじめた。やがて、まずふたつの目が融合してひとつのもっと大きな目になった。この大きな目に、ほかの目もどんどん合流し、体積を増していった。最後には、すべての目がひとつに融合した。その目はあまりにも大きく、まるですべての宇宙が三体世界を見つめる、その視線を体現しているかに見えた。瞳は澄みきって明るく、その中心には太陽が映っている。眼球の広大な表面には、さまざまな色彩が洪水のように流れていた。ほどなく、巨大な目に映された像は次第にディテールを失い、やがて消えていった。巨大な目は、瞳孔のない、めしいた目となったかと思うと、今度は変形しはじめた。とうとう目のかたちを失って、真円となった。円がゆっくりと回転しはじめたとき、それが平面ではなく放物面だということがわかった。巨大な球体から切りとられた一片。
ゆっくりと回転する巨大な物体を眺めていた軍事執政官は、とつぜんなにかに気づいたように、大声で叫んだ。
「元首閣下、みんなといっしょに、いますぐ地下シェルターに入ってください」上方を指さし、「あれは……」
「放物面反射鏡だ」元首が冷静に言う。「ただちに宇宙防衛軍に命じてあれを破壊させよ。われわれはここに残って見届ける」
反射鏡が集めた太陽の光は、すでに三体世界に投射されていた。最初のうち、集光された光の円は面積が非常に大きく、命に関わるほどの熱は持っていなかった。光の円は大地を移動し、標的を探している。やがて反射鏡が三体世界最大の都市である首都を発見し、光の円がそちらに移動しはじめた。まもなく、首都はその円にすっぽり包まれた。
振り子モニュメントの下に集まった人々は、宇宙のすさまじい眩しさしか見えなかった。その光は他のすべてを圧倒し、同時に激烈な熱波をもたらした。反射鏡が光の焦点をさらに絞ると、首都を包む光の円が急速に縮小しはじめた。宇宙の眩しさがさらに強まり、だれも顔を上げられなくなった。そして、光の中に立つ人々は、温度の急激な上昇を感じた。熱に耐えきれなくなったそのとき、光の円の端が巨大振り子モニュメントを通り過ぎ、あたりがにわかに暗くなった。人々の目が通常の明るさに慣れるのにしばらく時間がかかった。
彼らがようやく頭を上げたとき、最初に目に入ったのは、天まで届くような光の柱だった。円錐を逆さに立てたようなかたちで、宇宙の反射鏡が光の円錐の底面をなしている。
円錐の頂点は首都の中心に突き刺さり、その光に触れたものすべてを一瞬で白熱させている。あちこちからもくもくと煙の柱が立ち昇りはじめた。光の円錐が地表にもたらした温度差によっていくつも竜巻が発生し、巻き上げられた土の巨大な柱が天と地をつなぎ、光の円錐のまわりでねじれながらダンスを踊っている……。
と、そのとき、いくつかのまばゆい火球が、反射鏡のあちこちで炸裂した。その青い色は、反射鏡に映る光の中でくっきりと目立っている。それらは、三体世界の宇宙防衛軍が発射した核弾頭が標的上で爆発したことで生じたものだった。大気圏外で爆発したため、音は聞こえなかった。火球が消えたとき、反射鏡にはいくつもの大きな穴が現れていた。
次に、鏡面全体にひびが走り、割れて、最後には数十のかけらになって砕けた。
同時に光の円錐も消失し、世界はまた、ふだんの明るさに戻った。一瞬、空は月夜のような薄暗さになったように思えた。ばらばらになった放物面鏡の、すでに知性を失ったかけらはなおも変形しつづけ、まもなく空の他の立体と混じって区別がつかなくなった。
「次の展開実験では、いったいなにが起きることやら」元首は嘲るような表情を浮かべて、科学執政官に向かって言った。「次は陽子を四次元に展開するのか」「元首閣下、もしそうなっても大きな問題ではありません。四次元展開したあとの陽子は、体積がかなり小さいのです。宇宙防衛軍が迎撃態勢を整えて待ち受け、四次元空間から三次元空間に投射されたものを攻撃すれば、さきほどと同じように破壊することができます」
「元首閣下をあざむく気か」軍事執政官が激怒して、科学執政官を怒鳴りつけた。「ほんとうの危険に口をつぐんでいるではないか もし陽子がゼロ次元で展開されたらどうなる」
「ゼロ次元」元首は興味を引かれた。「それは大きさのない点だろう」「そう、特異点です」軍事執政官が言った。「陽子一個は、それと比べると無限に大きなサイズになります。陽子の質量全体がこの特異点に含まれ、その密度は無限大になります。元首閣下でしたら、それがなんなのか、もちろんご想像になれるかと」「ブラックホールか」
「さようでございます」
「元首閣下、説明させてください」科学執政官があわてて口をはさんだ。「われわれが中性子ではなく陽子を使って二次元展開することにしたのは、まさにその危険を避けるためなのです。万が一、ほんとうにゼロ次元に展開したら、陽子が持つ電荷も、展開されたブラックホールに引き継がれます。したがって、われわれは電磁力を使ってブラックホールを捕捉し、制御できます」
「万が一、ブラックホールをまったく捕捉できなかったり、制御できなかったりした場合は」軍事執政官が追及する。「そうなれば、ブラックホールがこの惑星に落ちてきて、途中、すべての物質を吸い込んで急激に質量を増やし、やがてこの惑星の中心にまで達して、最後は三体世界すべてを呑み込むことにもなりかねないぞ」「そんなことはぜったいに起きない。わたしが保証する おまえはなぜいつもいつもわたしの邪魔をする 言っただろう、これは科学実験であって──」「もういい」元首が言った。「次の実験が成功する確率は」「ほぼ百パーセントです。信じてください、閣下。この二回の失敗から、われわれはすでに、ミクロスケールからマクロスケールへの低次元展開の法則を理解しました」「わかった。三体文明の生存のためにも、このリスクは冒す必要がある」「ありがとうございます。元首閣下」
「だが、もし次も失敗だったら、おまえも、智子プロジェクトに関わったすべての科学者も、すべて有罪だ」
「はい、もちろん、全員有罪です」もし三体人に汗をかくことができたら、科学執政官は冷や汗をかいていたことだろう。
静止軌道上にある、三次元展開した陽子の清掃は、一次元展開の陽子と比べてずっと簡単だった。小型宇宙船を使って、陽子物質の断片を惑星近傍から引き離し、大気圏に侵入しないようにすることができたからだ。断片の中には、山ひとつ分のサイズのものもあったが、質量はゼロに近い。巨大な銀色のまぼろしみたいなもので、赤ん坊でも簡単に運ぶことができる。
後刻、元首は科学執政官にたずねた。「今回の実験で、われわれはミクロコスモスの文明ひとつを滅ぼしたのか」
「少なくとも、ひとつの知性体は滅ぼしました。それに閣下、われわれが滅ぼしたのは文明ひとつではなく、ひとつのミクロコスモス全体です。その微小宇宙は、高次元では広大なものでした。おそらく複数の知性もしくは文明が含まれていたでしょう。彼らには、マクロ宇宙と関わるチャンスが一度としてありませんでした。もちろん、それほどミクロなスケールの高次元空間において、知性や文明がどのようなかたちをとるかは、われわれの想像が及ぶところではありません。われわれとはまったくべつの存在です。それに、こうした破壊は、おそらく過去に何度となく起きています」「というと」
「科学が発展してきた長い歴史において、物理学者たちは加速器でいったいいくつの陽子を衝突させてきたでしょう また、いくつの中性子と電子を衝突させたでしょう 一億回以上になるでしょう。ひとつひとつの衝突は、ミクロコスモスの知性あるいは文明にとって、すべて壊滅的なものです。実際、自然状態においても、ミクロコスモスの壊滅はしじゅう発生しています。たとえば陽子と中性子の崩壊によって、あるいは大気圏に降り注ぐ高エネルギー宇宙線によって、そのような微小宇宙が数千単位で破壊されているかもしれません。……閣下は、よもや今度のことで感傷的になっていらっしゃるわけではありますまい」
「おまえはユーモアのセンスがあるな。ただちに宣伝執政官に通知して、この科学的事実を全世界にくりかえし宣伝させよう。三体人民にとって、文明の壊滅とは、実際は宇宙でつねに起きているごくありふれたことでしかないと知らせなければならない」「それにどのような意義があるのですか 三体文明に起こりうる壊滅に対して、人民に冷静に向き合わせるためですか」
「いや、地球文明に起こるであろう破滅に対し、三体人民に冷静に向き合わせるためだ。
おまえも知ってのとおり、地球文明に対する基本政策が公布されてから、感情的で危険な平和主義の動きがある。いまわかっていることは、三体世界には号監視員のような者がたいへん多いということだ。この種の脆弱な感情については、制御と消去が必要だ」「元首閣下、その種の感情は、主に最近になって地球から届いた新たなメッセージによって生じたものでしょう。閣下の予測どおり、地球内部の疎外分子は、勢力を拡大しつつあります。彼らは自分たちで完全にコントロールできる送信基地を建設し、われわれに向かって、地球文明に関する情報を継続的に大量に送ってきています。地球の文化が三体世界にとって大きな訴求力を持っていることは認めざるを得ません。われわれ三体人にとっては、天上の聖なる音楽のようなものです。地球人の人文思想は、多くの三体人を精神的な逸脱に誘うでしょう。地球では、すでに三体文明が一種の宗教となっていますが、三体世界でも、地球文明がそうなる潜在的な可能性があります」「おまえは重大な危険を指摘した。地球からのメッセージが民間に伝わらないよう、きびしく取り締まる必要がある。とりわけ、文化的な情報に関しては」 陽子の二次元展開の三度目の実験が、三十時間後に実施された。今回は夜間なので、地上から宇宙の加速器リングを見ることはできない。ただ、そばにある核融合発電機の、赤く輝く放熱板の光で、その位置がわかった。加速器が起動して少したってから、科学執政官が展開の成功を発表した。
人々は夜空を仰いだが、はじめはなにも見えなかった。しかしすぐに、奇跡のような現象に気づいた。星空がふたつの部分に分かれ、その両者における星々の配置が一致していない。大小二枚の星空の写真を、小さいほうを上にして重ねたように見える。天の川銀河が、両者の境界線で途切れている。星々をちりばめたふたつの夜空のうち、小さいほうは円形で、ノーマルな夜空を背景に、急速に広がりつつある。
「あの星座は南半球のものだ」文部執政官が、拡大しつつある円形の星空を指して言った。
惑星の裏側でしか見えないはずの星空が、どうして北半球の夜空に重なって見えているのか。人々がその理由を求めて想像力を最大限に働かせていたそのとき、さらに驚くべき光景が出現した。拡大しながら移動しつづける南半球の星空の隅のほうに、巨大な球体の一部が現れたのだ。球体は褐色で、描画速度が極端に遅いディスプレイに映し出される画像のように、一度に縦縞一本ずつ出現する。
その球体がなんなのかは、空を見上げている全員にわかった。見慣れた大陸のかたちがその上にはっきり見てとれたからだ。球全体が姿を現したとき、それは星空の三分の一を占め、細部まではっきり見分けられた。茶色がかった大陸にしわのようにのびる山脈、その大陸のところどころに雪の冠のように点在する雲。
だれかがとうとう、口に出して言った。「この惑ほ星しだ」 そう、宇宙にもうひとつ、三体惑星が出現したのだ。
それから、空が明るくなってきた。第二の三体惑星のとなりで、拡大しつづける南半球の星空の端から、太陽がまたひとつ現れた。いままさに南半球を照らしている太陽と同じものだが、本物の半分くらいの大きさしかない。
このときになってようやく、だれかが真実をさとった。「鏡だ」 三体惑星の上空に出現した巨大鏡。それは、二次元平面に展開された陽子だった。厚さのない、正真正銘の幾何学平面だ。
二次元展開が完了するころには、空は南半球の夜空を映した鏡にすっぽり覆われていた。天頂には、三体惑星と太陽の鏡像。それから、地平線近くの空が全方位で変形しはじめた。星々の鏡像が、まるで溶けたように長く伸び、ねじれている。変形は鏡のへりではじまり、中央に向かって昇っていった。
「元首閣下、いま、陽子平面がこの惑星の引力で曲げられているところです」科学執政官がそう説明しながら指さしたのは、星空にちりばめられた無数の光の点だった。まるで、無数の人々がてんでに懐中電灯の光をドーム天井に向けているように見える。「地表から電磁ビームを投射し、惑星重力のもとで、陽子平面の曲率を調整しています。最終的な目標は、展開した陽子によって三体惑星を完全に包み込むことです。そのあとは、無数の電磁ビームを投射しつづけることで、それらがスポークの役割を果たし、この巨大な球を支え、安定させます。こうして三体惑星は、二次元に展開された陽子をしっかり固定した作業台となり、陽子平面に電子回路をエッチングする仕事にとりかかれます」 三体世界を二次元の陽子平面ですっぽり包み込むプロセスには長い時間がかかった。鏡像の変形が、天頂に位置する三体惑星に到達したときには、星々はすべて消え失せていた。というのも、いまや惑星の裏側までカーブして広がる陽子平面が、星々の光を完全にブロックしていたからである。太陽に関しては、まだかろうじて、湾曲した陽子平面の内側に射し込んでくる光があり、宇宙空間に広がる凹面鏡に映された三体惑星が原形をとどめないくらい歪んでいるのを見ることができた。しかしとうとう、太陽の最後の光もふさがれてしまい、三体世界はじまって以来、もっとも暗い夜の中にすべてが沈んだ。下向きの重力と上向きの電磁ビーム投射がたがいにバランスを保ち、陽子平面は三体世界の軌道上で巨大な球殻を形成した。
それにつづいて、極寒が訪れた。全反射の陽子平面は、惑星に降り注ぐすべての太陽の熱量を宇宙に反射するため、三体世界の気温は急激に低下し、過去に多くの文明を滅ぼした三飛星出現に匹敵するレベルに達した。すべての三体人が脱水して貯蔵され、暗黒に包まれた大地には、死の静けさだけが残った。空には、陽子の巨大膜を支える電磁ビームの微弱な光がゆらめいているだけだった。軌道上でまれに見える小さな明かりは、巨大膜に集積回路をエッチングしている宇宙船のものだ。
ミクロスケールの集積回路の原理は、マクロスケールの集積回路のそれとはまったく異なる。素材は原子でできた物質ではなく、一個の陽子だ。回路の〝接合?は、陽子平面上で強い核力を局所的により合わせることで実現される。導線は、核力を伝えることのできる複数の中間子から成る。回路の平面は極大なので、回路そのものも非常に大きい。回路線はみな髪の毛のように太く、近づけば肉眼でも見分けられる。もし陽子平面の近くに飛べば、精密で複雑な集積回路から成る広大な平原を見渡すこともできる。回路の総面積は、三体惑星の陸地面積の数十倍にも達する。
陽子回路のエッチングは途方もなく大がかりな工程で、千隻以上の宇宙船が一万五千時間を費やしてようやく完成し、ソフトウェアの調整にはさらに五千時間を要した。そのようにして、ついに、智子ソフォンの第一回試験運行の時を迎えた。
地下深くにある智ち子し管制センターの大スクリーン上で、システム自動検査プログラムの長い処理が終わり、モニターシステムのダウンロードプロセスを経て、最後に青いスクリーン上に、大きく一行の言葉が現れた。
マイクロ知性?ローディング終了、智子一号ソフォン?ワンはコマンドを待っています。
「いま、智子が誕生しました」科学執政官が宣言した。「われわれはひとつの陽子に知恵を授けたのです。これは、われわれが製造することのできる、最小の人工知能です」「だが、いまのところ、これは史上最大の人工知能に見えるが」元首が言う。
「この陽子の次元を上げれば、非常に小さくなります」科学執政官はそう答えると、端末を通じて質問を入力した。
『智子一号、空間次元の調整機能は正常か』
『正常です。智子一号はいつでも空間次元調整機能を起動できます』『空間次元を三次元に合わせろ』
このコマンドが出たとたん、三体世界を包み込む二次元陽子の巨大な膜は急速に縮み、巨人の手がカーテンを引き開けたかのように、たちまち陽光が大地を照らした。陽子は二次元から三次元へと折り畳まれ、静止軌道上の巨大球体へと変化した。それは巨大な月くらいの大きさで、惑星の夜の側に位置している。だが、その鏡面が反射する太陽の光は、暗い夜を白昼に変えてしまった。それでも、三体世界の地表はまだ極寒の中にあり、管制室の人々はスクリーン上で変化を観察するしかなかった。
『次元調整に成功しました。智子一号はコマンドを待っています』『空間次元を四次元に合わせろ』
宇宙空間では、巨大球体がみるみる縮みはじめ、最後は、地上から見て飛星ほどの大きさになった。惑星のこちら側に、また暗い夜が訪れた。
「元首閣下、われわれがいま目にしている球体は、智子の完全な姿ではありません。三次元空間に投影された断面です。実際の智子は四次元の巨人であり、われわれの世界は薄い三次元の紙です。智子はこの紙の上に立っていて、われわれに見えるのは、智子の足裏が紙と接触している部分だけです」
『次元調整に成功しました。智子一号はコマンドを待っています』『空間次元を六次元に合わせろ』
宇宙から小さな球体が消失した。
「六次元の陽子はどのくらいの大きさだ」元首がたずねる。
「半径約五十センチメートルです」科学執政官が答えた。
『次元調整に成功しました。智子一号はコマンドを待っています』『智子一号、われわれが見えるか』
『見えます。わたしは管制室を見ることができます。その中にいるすべての人を見ることができます。また、それぞれの人の内臓や、内臓の内側を見ることができます』「どういうことだ」元首は驚いてたずねた。
「智子は六次元空間から三次元空間を見ています。ちょうどわれわれが二次元平面上にある一枚の絵を見るように、われわれの内部を見ることができるのです」『智子一号、管制室に入れ』
「あれは地面を通り抜けられるのか」元首がたずねる。
「通り〝抜ける?のではありません、閣下。高次元から入るのです。智子はわれわれの世界の、どんなに密閉された空間にも自由に入れます。三次元にいるわれわれと、二次元平面との関係に置き換えて言えば、つまりこういうことです。われわれは、平面上にある円の中に、上から簡単に入ることができます。しかし、平面上にいる二次元生物が閉じた円の中に入ろうと思えば、円を壊すしかありません」 科学執政官がそう言い終えるのと同時に、管制室の真ん中に鏡面の球体が出現した。宙に浮かんでいる。元首はそれに近寄り、全反射する球面に映る、変形した自分の鏡像を眺めた。「これがひとつの陽子なのか」驚きと感嘆の念がこもった口調でたずねる。
「元首閣下、これは、六次元空間にある陽子を三次元空間に投影したものにすぎません」 元首は手を伸ばし、科学執政官が止めようとしないのをたしかめてから、智子の表面に触れた。手が軽くさわると、智子はちょっとだけ押されて動いた。
「とてもなめらかだ。陽子一個の質量というが、わたしの手には多少の抵抗が感じられたぞ」元首が解せないようすで言った。
「球体に空気抵抗が作用しているためです」
「十一次元まで移行させて、本来のサイズの陽子に戻すこともできるのか」 元首がそう言い終える前に、科学執政官はあわてて智子に叫んだ。
『注意、これはコマンドではない』
『智子一号、了解しました』
「元首閣下、もし十一次元まで移行させて、陽子が元のサイズに戻ってしまったら、われわれは永遠に智子を失ってしまいます。智子が亜原子粒子のサイズにまで縮めば、内部センサーと入出力インターフェイスは、どんな電磁波の波長よりも小さくなります。つまり、智子がマクロ世界を感知できなくなり、われわれのコマンドも受けつけなくなるということです」
「しかし、最終的にはあれを亜原子粒子に戻さねばならない」「そのとおりです。しかしそれには、智子二号、三号、四号の完成を待たなければなりません。複数の智子は、量子効果を通じてマクロ世界を感知するシステムを構築できます。
たとえば、ある原子核にふたつの陽子があるとしましょう。それらふたつの陽子は相互作用し、一定の法則にしたがいます。スピンを例にとりましょう。ふたつの陽子は、たがいに反対向きのスピンを持っています。このふたつの陽子を原子核からとりのぞいたとき、陽子と陽子の距離がどれほど離れていても、このスピンの法則は効力を失いません。片方の陽子のスピンの向きを変えれば、もう片方の陽子のスピンの向きも変わります。双方の陽子を智子にした場合、この量子効果に基づいて、相互感帧》ステムが構築されます。智子の数をさらに増やせば、相互感帧≌ォーメーションを組むことも可能です。このフォーメーションのスケールは、いかなるサイズに調節することもできますし、いかなる周波数の電磁波でも受信して、マクロ世界を感知することができます。もちろん、そうした智子フォーメーションを実現するために必要な量子効果は非常に複雑で、いまの説明はただのたとえにすぎませんが」
つづく三つの陽子の二次元展開はどれも一回で成功をおさめた。それぞれの智子の構築時間も、一号のときの半分で済んだ。智子二号、三号、四号が構築されたのち、四体の智子によって作られる量子感帧≌ォーメーションも順調に構築された。
元首と全執政官が、ふたたび巨大振り子モニュメントの前に集合した。上方には、すでに六次元にまで折り畳まれた智子が四体浮かんでいる。それぞれの球のクリアな鏡面には、いま昇っている太陽が映し出されている。それは、かつて空に出現した三次元の目を思い出させた。
『智子フォーメーション、十一次元に移行せよ』
コマンドと同時に、四つの球体が消失した。
「元首閣下」科学執政官が言った。「智子一号と二号は地球へ旅立ちました。ミクロ回路に保存した膨大な知識データベースによって、智子たちは空間の特性を明確に把握しています。彼らは真空からエネルギーを引き出して、瞬時に高エネルギー粒子となり、光速に近い速度で飛行します。エネルギー保存の法則に反しているように見えるかもしれませんが、実際には、智子は真空構造からエネルギーを〝借りて?いるだけです。しかし、このエネルギーを返済する期限ははるかな未来──陽子が崩壊するときです。その時点では、宇宙の終焉もそう遠くなくなっているでしょう。
地球に到着したあと、二体の智子の第一の任務は、人類が物理学研究に用いる高エネルギー加速器を見つけ出し、その中に潜伏することです。地球文明の科学水準では、物質の構造を探究する基盤は、加速した高エネルギー粒子をターゲットとなる粒子にぶつけ、そのターゲット粒子がこわれたのち、結果を分析して、物質の基本構造を示す情報を見つけ出すという方法です。実際の実験では、ターゲット粒子を含む物質を衝突目標としますが、物質の内部はほとんど空の状態です。たとえば、ひとつの原子が劇場と同じくらいの大きさだとすれば、原子核は劇場内に浮かぶクルミ一個のサイズです。それゆえ、衝突が成功する確率はきわめて低く、たいていの場合、長時間にわたって大量の高エネルギー粒子を目標物質に向かって投射しつづけた挙げ句、ようやく一度の衝突が生じるのです。このような実験は、夏の豪雨の中で、色が少しだけ違う雨粒を探し出すようなものです。
智子にとっては、そこが付け目です。智子がターゲット粒子のかわりに衝突されるのです。智子には高度な知性がありますから、量子感帧≌ォーメーションを通じて、加速された粒子がとるコースを瞬時に予測し、適切な位置に移動します。その結果、智子が衝突される確率は、ターゲット粒子の数十億倍になります。衝突されたあと、智子は意図的にまちがった結果を出し、地球人物理学者を混乱させることができます。もし仮に、正しいターゲット粒子に衝突するケースがときおり発生するとしても、無数の誤った結果から正しい結果を区別することは不可能でしょう」
「衝突によって、智子も破壊されてしまうのでは」軍事執政官がたずねた。
「いいえ。智子が衝突されてばらばらになった場合、ばらばらになった数だけの新しい智子が生じます。それらの新しい智子は、それらのあいだに強い量子もつれエンタングルメントを維持しつづけます。一個の磁石を半分に割ったとき、ふたつの磁石ができるのと同じことです。割れた智子のかけらは、もともとの完全な智子とくらべてたしかに機能が劣りますが、修復ソフトウェアの指示にもとづいて、かけらは一カ所に集まり、衝突前とまったく同じ完全な智子に再結合します。このプロセスは、高エネルギー加速器の中で衝突が起き、智子のかけらが泡箱もしくは乳濁感光性フィルムに誤った結果を残したあと、一マイクロ秒のあいだに完了します」
「地球人科学者がなんらかの方法で智子を探知する可能性はないのか」またべつのだれかが質問した。「そのあと、強力な磁場を使って智子を捕獲するとか。陽子は正の電荷を持っているからね」
「それはもっとありえませんね。地球人が智子を探知するには、物質の基本構造の研究において大きなブレイクスルーが必要だ。しかし、高エネルギー加速器がすべてただの鉄くずになってしまっている状態で、そんな研究に進展は望むべくもない。猟師の目が、獲物にひっかかれて見えなくなっているようなものです」「地球人は物量作戦に訴えるかもしれない」工業執政官が発言した。「われわれが智子をつくるのを上回る速さで地球人が大量の加速器を建設すれば、すくなくとも地球上の加速器のいくつかは智子の潜伏が間に合わず、正しい結果が得られることになる」「そこが智子計画プロジェクト?ソフォンのもっとも興味深い点なのです」この質問は科学執政官を興奮させた。「工業執政官殿、大量の智子をつくるために三体世界の経済が崩壊するのではないかという心配は無用です。そんな必要などないのです。あと二、三体はつくるかもしれませんが、そう多くはありません。それどころか、いまの二体でじゅうぶん以上です。なぜなら、それぞれの智子はマルチタスクが可能だからです」「マルチタスク」
「古いシリアル?コンピュータの専門用語です。当時のコンピュータのは、一度にひとつのプログラムしか実行できなかったのですが、処理速度の速さと、短い時間で複数のプログラムを切り換えるスケジューリングを活用することにより、低速度のユーザーの視点からは、コンピュータが同時に多くのプログラムを実行しているように見えました。ご承知のとおり、智子は光速に近い速度で運動します。地球世界は、光速という観点からすれば、とてもせまい場所です。地球上のさまざまな加速器のあいだを智子が光速で巡回すれば、地球人の目からは、智子がすべての加速器に同時に存在し、誤った結果を同時に出しているように見えるでしょう。
われわれの計算によれば、智子一体で一万基の高エネルギー粒子加速器をコントロールできます。一方、地球人が加速器を一基建設するには四、五年の歳月を要し、経済的にもリソース的にも、大量につくることは不可能です。もちろん、加速器間の距離を離すという対策も考えられます。たとえば、彼らの星系にある他の惑星に加速器を建設したとすると、たしかにそれは、智子のマルチタスク処理の障害になるでしょう。しかし、それを実現するには、長い時間がかかります。そのあいだに、三体世界がさらに十個、もしくはそれ以上の智子をつくりだすことは、さほど困難ではありません。
あの星系にいる智子の数はどんどん増えることになります。それらをすべて合わせたとしても、質量の合計は、やはり細菌の繊毛一本の一億分の一にもなりません。それでも智子は、地球の物理学者たちが物質の基本構造の秘密に迫ることをけっして許さず、地球人類はミクロ次元にアクセスすることができず、物質を操作する彼らの能力は、四次元以下に制限されるでしょう。四百五十万時間はおろか、四百五十兆時間かけても、地球の科学が根本的なブレイクスルーをなしとげることはなく、地球人はいつまでも永遠に初歩の段階にとどまることになります。地球の科学はすでに完全に封じ込められています。科学を縛る鎖は堅固で、地球人類の力では、永遠に解くことはできません」「すばらしい 智子プロジェクトに対する、これまでの非礼な言葉の数々をお許しください」軍事執政官が心から謝罪した。
「実際、地球ではいまのところ、重要な研究成果を出せるレベルにある加速器は三基だけです。地球に到着した智子一号と二号は、能力があり余っています。その力をフルに活用するため、三基の加速器に干渉すること以外に、新たな任務を与える予定です。そのうちのひとつは、〝奇跡?計画の主役となることです」「智子は奇跡をつくりだせると」
「地球人から見れば、ええ、そのとおりです。みなさんご存じのとおり、高エネルギー粒子はフィルムを感光させることができます。これは、地球の原始的な加速器がかつて個々の粒子を検出するために採用していた方法のひとつでもあります。智子が高エネルギー状態でフィルムを一回通過すれば、フィルムに一点の感光が生じます。何度もくりかえし往復すれば、それらの点をつないで、文字や数字、図形までも、刺繍のように自在に描き出すことができます。このプロセスも、きわめて高速です。地球人が写真を撮影するさい、フィルムを感光させる速度の比ではありません。さらに、地球人の網膜は三体人のそれとよく似ています。高エネルギーの智子は、同じ方法を使って、地球人の網膜に、文字や数字や図形を映すことができます。
……これらの小さな奇跡が地球人を惑わし、怯えさせるとしたら、次の巨大な奇跡は、虫けら科学者たちを凍りつかせるでしょう。智子は彼らの目に見える宇宙背景放射全体をちらつかせることができるのです」
「そんなことができたら、われわれの科学者でも凍りつくだろう。どうやって実現するのだね」
「簡単なことです。智子にはすでに、二次元に展開するためのソフトウェアが書き込まれています。展開が完了すれば、智子はその巨大な平面で地球全体を包み込むことができます。ソフトウェアには、この膜を透明にする機能もあり、宇宙背景放射の波長に合わせて透明度を調節することも可能です。
……もちろん、智子が他の次元に折り畳まれたり展開されたりすれば、さらに驚くべき〝奇跡?を見せることもできます。それを実装するソフトウェアはまだ開発中ですが、こうした〝奇跡?は、人類の科学思想をまちがった方向に導くのにじゅうぶんでしょう。このように、物理学以外の科学的営為も、奇跡計画によって効果的に妨害することができます」「最後にもうひとつ質問がある。完成した智子をどうして四体とも地球に送らなかった」「量子もつれは、距離に関係なく作用しますから、四体の智子を宇宙の両端に置いたとしても、智子はたがいを瞬間的に感知して、四体のあいだの量子フォーメーションを維持します。したがって、智子三号と四号を三体世界に残しておけば、智子一号と二号が送ってくる情報を瞬時に受けとり、リアルタイムで地球をモニターすることが可能になるのです。それに、智子フォーメーションを通じて、地球文明の疎外された勢力とリアルタイムでコミュニケートすることもできます」
「そこでわれわれは、戦略的に重要な一歩を踏み出すことになる」と元首が口をはさんだ。「智子フォーメーションを通じて、われわれ三体人の真の意図を、地球人に告げるのだ」
「それは、三体艦隊が長期間にわたって地球人の誕生を禁止し、人類という種を地球上から消し去るという事実を、彼ら自身に伝えるということですか」「そうだ。そうすれば、ふたつの可能性が生じる。ひとつは、地球人がすべての幻想を捨てて、決戦を挑んでくる可能性。もうひとつは、彼らの社会が絶望と恐怖に支配され、堕落と崩壊に陥るという可能性。これまでに集まった地球文明に関するデータを細かく研究した結果、後者の可能性が大きいと、われわれは判断した」 昇ったばかりだった太陽は、いつのまにか、また地平線の下に隠れ、日没になった。三体世界に、新たな乱紀が訪れたのだった。
葉文潔イエ?ウェンジエが三体世界からのメッセージを読んでいたとき、作戦司令センターでは、降臨派から奪取したデータをさらに細かく分析すべく、重要な会議が開かれていた。開会に先立ち、常偉思チャン?ウェイスー少将が言った。「同志諸君、われわれの会議は、現在すでに智子の監視下にある。今後は、なんの秘密も存在しない」 このとき、周囲の光景は見慣れたものだった。閉ざされたカーテンには、夏の陽射しを浴び、風に揺れる樹木が影を落としている。
しかし、会議の参加者たちの目に映る世界は、すでにこれまでのそれとはべつの世界になっていた。あらゆる場所に遍在しつづける目が自分を見つめていて、この世界のどこへ行こうと、その目から逃れられない。この感覚は彼らの一生につきまとい、彼らの子孫さえもそれを逃れることができない。人類が精神的にこの状況に慣れるには、長い長い年月がかかるだろう。
常偉思少将がこう話した三秒後、以外の人類と、三体世界とのあいだで、はじめてのコミュニケーションが成立した。これ以降、三体世界は降臨派との通信を中止し、この会議参加者たちが生きているあいだには、三体世界からいかなるメッセージも二度と届くことはなかった。
このとき、作戦司令センターの全員は、汪淼がカウントダウンを見たときと同じように、彼らのメッセージをその目ではっきり見た。メッセージは二秒間あらわれ、そして消えたが、全員がメッセージを理解した。それは、たったの十文字だった。
『おまえたちは虫けらだ』