「それで、おまえさんは、家なしになってしまったのですかい。」と、おばあさんはいった。
「家なしに?」
少女は、なんというさびしい言葉だろう? こういわれると、胸がふさがるように悲しかったのでした。なるほど、考えれば、もうどこにも自分の帰る家はない。ただこのうえは、ひとりの兄をどうしてもさがさなければならぬという、日ごろの願いに、気がひきたったのです。
「お母さんがなくなられたので、私は、兄さんをさがしに、故郷を出ました。しかし、旅をしている間に、持っているだけの旅費を使いはたしましたから、この町で働いて、また旅をしようと思っています。」と、答えました。
「それは、感心なことだ。けれど、あてもなく歩いたって、兄さんにめぐりあうことは、むずかしいもんだ。」と、おばあさんはいった。
これを聞くと、少女は、月の下で、霜になやんだ弱い花のようにしおれてしまいました。
「おばあさん、どうしたら、私はこの世の中で、ただ一人の兄さんにめぐりあうことができるでしょうか……。」と、訴えたのです。
白髪頭のおばあさんは、考えていましたが、
「それは、方々の人の出入りするところへいって、いろいろの人に、おまえさんの兄さんの話をして聞いてみなければ、わかりっこはないよ。私がいいところへつれていってあげるから、明日の晩に、町はずれの橋の上にいって待っておいで……。きっとだよ。私は、おまえさんの身の上を悪くとりはからわないから。」と、おばあさんはいいました。
少女は、しんせつなおばあさんだと思って、その夜は別れて帰りました。
翌日になると、少女は、人形のかわりになって、店さきでつとめるのも今日かぎりだと思うと、町の景色を見るにつけ、なんとなく、もの悲しかったのであります。
呉服店の主人というのは、気軽なおもしろい人でした。少女は、自分の身の上を打ちあけて話したのは、おばあさんと主人の二人ぎりでしたが、主人はどうかして、兄さんにあわしてやりたいと、蔭ながら心配していましたので、新聞記者に話したものとみえて、このことが土地の新聞に載りました。すると、生きた人形の身の上話が、たちまち町の中にひろまったのでした。
ちょうど、その日のことであります。青年が、呉服店へたずねてきました。
「私が、兄です。」といって、少女に面会を求めました。けれど、彼女は、子供の時分に別れたので、兄さんの顔をおぼえていません。
「ほんとうに、お兄さんでしょうか?」と、少女は、美しい目で、じっと青年を見つめていました。
「なにしろ十年もたったのだから、忘れてしまったのに無理はない。けれど、僕には、雪ちゃんの小さな時分のかわいらしい姿が、ありありと目に残っているよ。」と、青年はいって、
「僕も、覚悟をして家を出たのだから、りっぱな画家にならなければ、帰らないと思っていたのだ……。」と、語りました。そして、ふところから、お母さんの写真を出して、妹に見せたのであります。
「一日だって、お母さんのことを思い出さない日とてなかった。」といって、青年は涙を落としました。
少女は、いま、彼をほんとうの兄だと信じて、疑うことができない。一時に、喜びと悲しみとで胸がいっぱいになって、張り裂けるようでありました。
「兄さん! 兄さん! ああ、私は、とうとう兄さんにめぐりあった。お母さん……なぜ死になされたの、お母さん……。」と、兄にすがりついたのでした。そして、もし、今日兄さんにめぐりあわなければ、晩には、あのおばあさんにつれられて、また遠く、どこかへいってしまったであろう……と話しました。
「それは、片目の白髪のおばあさんじゃなかったかい?」と、兄は聞きました。
「片目だったかもしれません。たいへんにしんせつな……。」
すると、かたわらに、いっさいの話を聞いていた主人も、また兄もびっくりして、
「あのおばあさんに、見こまれたら、どうしても逃げられはしないということだ。怖ろしいかどわかしのおばあさんなのだ! 仲間が、幾人あるかもわからない。きっと船着き場の町へ、おまえを売るつもりだったろう。なんにしても、早くこの町から逃げ出さなければいけない。」といいました。
その晩のことであります。あちらには、港のあたりの空をあかあかと燈火の光が染めていました。そして、汽笛の音や、いろいろの物音が、こちらの町の方まで流れてきました。また一方は、はるかに、青黒い山脈が、よく晴れた月の明るい空の下に、えんえんと連なっていました。その広野を青い着物をきて、頭に淡紅色の布をかけて、顔を隠し、白い馬に乗って馬子に引かれながら、とぼとぼと山の方を指してゆく女がありました。
馬はだまっていました。乗っている人もだまっていました。そして、馬を引いてゆく人もだまっていました。ただ月の光に、あたりはぼうっと夢のようにかすんで、はてしもない広い野原に、これらの人たちは、絵のごとく浮いて見えたのです。
このとき、黒い人影が、その後を追ってきました。二人、三人、めいめい手に棒を持ってわめいてきました。とうとう彼らは、馬に追いつくと、行く手をさえぎって、
「青い着物をきている。この女だ。もうけっして逃がしはしないぞ。」と、追ってきたものどもはいいました。
馬子は、たまげて、その人たちのようすをながめました。
「おい、この女をどこへつれてゆくつもりだ?」と、一人は、たずねました。
「この方は、おしでございます。そして、今夜の中に、あの山のいただきのお寺までおつれもうしますので。夜が明けると尼さんにおなりなさるのだそうでございます……。」と、馬子は、答えました。
「まあ、いいから、ここから、馬を町までもどせ!」と、追っ手はせまりました。
ふたたび、月の明るい野原を歩いて、一行は、町はずれの橋の上までまいりますと、白髪のおばあさんがそこに立って待っていました。
「よく、私にだまって逃げたな。」と、おばあさんは、怒って、馬から女を引き下ろして、女のかぶっていた布を取りのけて、怖ろしい目で、顔をにらみました。
「え、これは、ほんとうの人形だ。私は、生きている人形をつれてこいといったのだ!」と、おばあさんは叫びました。みんなも、あっけにとられて、人形を見ました。
こうしている間に、ほんとうの少女は、もう兄さんといずくへか、この町から去った時分であります。