魚と白鳥
小川未明
河の中に、魚が、冬の間じっとしていました。水が、冷たく、そして、流れが急であったからであります。水の底は、暗く、陰気でありました。
魚の子供は、長い間、こうして、じっとしていることに退屈をしてしまいました。早く、水の中を自由に泳ぎたいものだと、体をもじもじさしていました。
けれど、母親は、よくいい諭したのであります。
「もうすこし辛棒しておいで、じきに春になる。そうすれば、水の上が明るくなって、水もあたたまりますよ。そうなったら、自由に泳ぐことを許してあげよう。」
子供は、お母さんに、こういわれると、おとなしくしていなければなりませんでした。しかし、それは、元気のいい子供には、なかなか退屈なことでありました。
ある日のこと、子供は、急に、頭の上が、赤く、ちらちらするのを見ました。子供は、喜んで躍りあがりました。
「なんという、赤い、明るい光だろう。春になったのだ!」と叫びました。子供は、すぐにも、その赤い光を慕っていこうとしました。
すると、母親は、あわててそれを止めました。
「おまえ、あれは、月の光でも、太陽の光でもないのだよ。あれを見て、いこうものなら、たいへんなことだ。もう、おまえは、二度と私のところへは帰ってこられない。あの赤いのは、人間が、火をたいているのだよ。そして、私たちをだまして、水の上へ呼び寄せようとしているのです。もし、いってごらん。人間が、大きな網で、みんなすくってしまうから……。」と、いいきかせました。
子供は、なんという怖ろしいことだろうと思いました。じっと、水の底に沈んで、暗い上の方で、一ところだけが、赤く、電のように、ちらちらと火花を散らしているのを、怖ろしげにながめていました。
「お母さん、春になると、どうなるのですか?」
と、子供は、いいました。
子供は、去年の春、生まれたので、まだ、今年の春にはあわないのであります。すると、母親はいいました。
「春になると、水の上が、一面に明るくなるよ。けっして、あのように、一ところだけが、赤く、明るくなるというようなことがありません。」と、よく教えました。
子供はそれから、暗い水の底を、お友だちと、あまり遠くへはいかずに、泳いでいました。なんといっても、水の底は暗いので、それに、そこばかりにいると飽きてしまって、早く、自由に、広い世界へ出てみたかったのです。
「ほんとうに、早く、春がくるといいな。」
と、子供は、お友だちに向かっていいました。
「春になると、水の上が一面に明るくなるということだから、よくわかるね。」
と、友だちは答えました。
「いったい、水の上から、上は、どんなところだろうか? 見たいものだね。」
「水の上へ浮かんで泳ぐと、空というものが見えるそうだ。その空に、太陽も輝けば、夜になると、月も出るのだということだよ。」と、友だちは、だれからか聞いたことを語りました。
ある夜のこと、水の上が一面に明るくなりました。子供は、今度こそ、春になったのだと思いました。そして、友だちといっしょに母の許しも得ずに、勇気を出して、上へ、上へと浮かんでみました。
「僕たちは空を見よう。」
「月を見ようね。」
こう彼らは、途中、希望に輝く瞳を上に向けて、語り合いました。
みんなは、とうとう上へいって、頭を堅いものに打ちつけてしまいました。
「なんだろうね?」
と、一人が叫びました。
「ああ、わかった。空に、頭をぶっつけたんだ。」
と、友だちの一人はいいました。
「どこに、月があるのだろう……。」
「きっと、どっかに隠れているんだよ。」
みんなは、不思議な空の光に、感心しましたけれど、その光は、寒く、なんとなくすごかったのであります。
みんなは、怖ろしくなって、また、水の底に沈んでしまいました。
「お母さん、もう春になったんでしょう。あんなに、水の上が明るいもの、僕、みんなと上へいったら、空に、頭を打ちつけてしまった。」と、子供はいいました。
すると、母親は笑いました。
「まだ、春にはならないのだよ。そして、頭を打ったのは、空ではありません。空は、それはそれは高いところにあって、人間でも、そこまではいかれないのです。おまえの頭を打ったのは、氷ですよ。あまり寒いので、水の面が氷っているのです。」といいました。
子供は、これを聞くと、がっかりしました。それから、どんなに、春のくるのを待ち遠しく思ったことでしょう。
しかし、ついに、春がやってきました。
ある夜、頭の上が、いつになく、明るく、青白く見られたのでした。
「とうとうおまえの待った、春がきました。今夜は、おまえに、お月さまを見せてあげよう。やっと氷が解けたのです。」と、母親はいって、子供をつれて水の面に浮かびました。
なんという、広い、未知の世界が、水の外にあったでしょう? 子供は、高い、雲切れのした空を見ました。円い、やさしい、月の光を見ました。また、遠い、人間の住んでいる森や、林の影などをながめました。そして、お母さんにつれられて、さざなみの立つ、河の水面を、あちら、こちらと泳ぎまわったのでありました。
「これからは、一日ましに、水の中も、暖かに明るくなってきます。そして、昼間は、太陽が、河一面に、火を点したように、明るく照らすでしょう。そうなると、おまえは、じっとしては、いられなくなりますよ。けれど、この水の上へ近く出てごらんなさい。そこにはおまえの大好きな餌が、たくさんに水の中に浮いています。そして、もし、おまえがそれを食べようものならたいへんだ。おまえは、針に引っかかって、人間のために、水の上へ釣り上げられて、やがて死んでしまうのです。だから、けっして、お母さんといっしょでなければ、水の上へは遊びにこられませんよ。」と、母親は、いいました。
子供は、なんという窮屈なことだろうと思いました。
「お母さん、そんなら、私たちは、どんなところで遊んだらいいでしょうか。」と、子供は、母親にたずねました。
母親は、子供を振り向いて、
「人間が、岸では、釣りをしていますから、河の真ん中で遊ぶのですよ。そして、なんでも、ほかのものに、捕らえられそうになったら、できるだけの力を出して、跳ねるのです。」と、母親は教えました。
一日ましに、水の中は暖かになりました。そして、もはや、陰気ではなくなり、じっとしてはいられないように、明るい、かがやかしい日がつづいたのです。
子供は、お母さんの許しなどを受けるのをもどかしく思いました。ある日、子供は、ひとりで、河の真ん中へ出て、遊んでいました。だんだん、上へ、上へと、太陽のよく当たる方へ、慕って登りました。
なんといううれしい光でしょう。子供は、跳ねたくなりました。走りたくなりました。どこまでもいってしまいたくなりました。
太陽の光のさすところ、水の中は、うす青く、平和でありました。子供は、うれしさを我慢していることができなくなったのであります。
二度、三度、水の面へ白い腹を出して、跳ね上がりました。
ちょうど、このとき、どこにいて、狙っていたものか、もう一度、子供が跳ね上がったとき、一羽の白鳥が、巧みに子供をくわえてしまいました。
子供は、驚きました。そして、身をもだえました。しかし、なんのかいもなかったのであります。
「どうか、私を助けてください。お母さんが、待っています。」と、子供は、水の上を、自分をくわえて飛んでいく、白鳥に向かって頼みました。
白鳥は、なんで、子供の訴えを聞きいれましょう。子供をくわえて、ある大きな岩の上へ止まりました。そして、魚の子供を岩の上において、いいました。
「もう、おまえは帰ることができない。俺は、おまえを捕らえると、すぐにひとのみにしてしまおうと思ったが、おまえみたいな、小さなものをのんだからとて、なにも腹の足しになるものでない。それよりも、俺の子供に食べさしてやりたいために、ここまで持ってきたのだ。」と、情けなくいいました。
子供は、お母さんのいうことをきかなかったことを、はじめて後悔しました。
白鳥は、岩の上で、自分の子供を呼びました。すると、どこからか、小さな白鳥が、日の光に、雪のように、白い翼を輝かして、飛んできました。
「おまえの大好きな魚を持ってきてやったよ。」と、白鳥の母親は、子供に向かっていいました。
小さな白鳥は、珍しそうに、かわいい、黒い円い目つきで、魚をながめていました。
「さあ、よくかんでお食べ。」と、母親は、小さな白鳥に、注意をしていました。
このとき、魚の子供は、母親が、いつでも、危なかったときには、できるだけの力を出して、跳ねろ! といったことを、思い出しました。彼はふいに、命かぎりの力を出して、跳ね上がりました。
魚の子供は、岩を飛び越して、水の中へ落ちました。彼はしめたと思うと、すぐに、深く、深く、水の底に沈んでしまいました。
白鳥は残念がりました。そして、子供の白鳥に、注意が足りないといって、しかりました。小さな白鳥は、ただ驚いて、目をみはっているばかりでした。
しかし、この経験によって、魚の子供は、りこうになりました。もうけっして、うかつには跳ねられないことを知りました。また、どういうときに、自分は跳ねなければならぬかということを学びました。
小さな白鳥は、はじめて、これによって、敏捷な、本性を目ざめさせられたのです。こののち、どんなときに、油断をしてはならないかということを知りました。
春もすぎて、夏のころには、魚の子供は、もう、大きくなりました。やがて、お母さんになりました。小さな白鳥も、大きくなりました。そして、魚は、水の中を気ままに、泳ぎまわり、白鳥は、空を、自由に翔けていたのであります。