動く絵と新しき夢幻
小川未明
時間的に人事の変遷とか、或は事件の推移を書かないで、自分の官能を刺戟したものを気持で取扱って、色彩的に描写すると云うことは新らしき文芸の試みである。
だから、それは時間的と云うよりは寧ろ空間的に書くことになる。元来これは絵画の領域に属するもので、絵画の上ではあらゆる物象だの、影だのを色彩で以て平たい板の上に塗るので、時間的に事件を語っているものではない。併し、それが最近の色彩派になって来ると、絵画が動くようなところに進んでいると思う。
例えば海の水を描くとか、或は真夏の山を描くとか、又は森の深緑に光線の直射しているところを描くとか、それ等は真実動いているように見える。けれども、それに依って刹那の前後の気持は現われても、それ以上時間的に現わすと云うことは、どうも絵画の領域でないように思われる。
この絵を描くと云うような気持で、更に想像的に作者の気持を文章の上に於て書き得ると信ずる。それが即ち文芸上の色彩派の行き方である。筋とか、時間的の変遷とか云うものを描くのではなくて、そこに自分が外界から受け得た刺戟とか、胸の中の苦悶とかを象徴的に映出するのである。それには無論強烈な色彩を以てしなければならないと思う。
丁度、絵画に於ける色彩派が使うような色で描き現わすのである。よしんば、その色は彼のモネーなぞの使った眼を奪うような赤とか、紫とか、青とかあらゆる光線に反射するようなぎらぎらした眼の廻るような色彩のみでなくとも、極く単調な灰色とか、或は黒や白であっても此の気持は出せると思う。
明るい方面でなくて、暗い方面も絵画的に出せるのである。即ち印象的の描写と云うものは、必ずしも色彩の複雑なるを要しないのである。よし単調な色彩であっても、そこに一種云うべからざる魅力と、奪うべからざる力を描出し得ると思う。この事はいつか詳しく云いたいと思っている。
僕は批評と云わず、作と云わず、セルフのないものは充らないと思う。只単に旨いと思って読むものと、心の底から感動させられるものとは自らそこに非常な相違があると思う。
読んで見て、如何にも気持がよく出て居て、巧みに描き出してあると思う作品は沢山あるけれども、粛然として覚えず襟を正し、寂しみを感じさせるような作品は極めて少ないように思う。
併し古い例であるが、故独歩の作品中のある物の如きは、読んでいると、如何にも作者自身が自然に対して思った孤独と云った感じが、一種云い難い力を以て読者の胸に迫るのを感ずる。独歩その人が悠々たる自然に対して独り感じたんだなと思うその姿がまざ/\と見える。秋から冬にかけて木枯の寒い晩に一人の女性が、人生に感傷して歩いていたと云う姿が浮んで来る。自己対自然と云う悠遠な感じがどの作品にも脉打つように流れている。
僕はそれ等の作品を目して、セルフがはっきりと出ているからだと云いたい。それは即ち作者が作品を書くに当って何等一点の世俗的観念が入っていないと云うことを証明している。
現時文壇の批評のあるもの、作品のあるものは、作者が筆を執っている時に果して自己を偽っていないか、世俗的観念が入っていないか疑わざるを得ない。斯くの如き批評や作品に人を動かす力の足らないのは当然である。既に形式的に出来上っているところの主義の為めの作物、主義の為めの批評と云うものは、虚心平気で、自己対自然の時に感じた真面目な感じとは是非区別されるものと思う。
よく真面目と云うことを云う。僕はこの真面目と云うことは即ち自分が形式に囚われないと云うことであろうと思う。何者にも囚われないで自然人生を見ると云う気持、沁み/″\と感ずる気持が、真のシンセリティの気持である。
かくて始めて風の音を聴いても、音楽を聴いても、他のあらゆるものを見ても、そこに始めてイリュージョンと云うものが起って来るのである。
然るにこのナチュラルな気持、デリケートな気持と云うものを感じなくて、すべてのものを心から感ずると云うことを嫌い、何物の刺戟にも感じないと云うのを誇るのを称して、近代的特色と云うならば、実に滑稽と云うの外はない。それは、形式に囚われたのでなければ、このシンセリティを欠くものである。