海が呼んだ話
小川未明
一
自転車屋のおじさんが、こんど田舎へ帰ることになりました。清吉や、正二にとって、親しみの深いおじさんだったのです。三輪車の修繕もしてもらえば、ゴムまりのパンクしたのを直してもくれました。また、その家の勇ちゃんとはお友だちでもありました。おじさんは、犬や、ねこが好きでした。いい人というものは、みんな生き物をかわいがるとみえます。
勇ちゃんは、こんど田舎の小学校へ上がるといいました。
「勇ちゃん、田舎へいくのうれしい?」
「お友だちがなくて、さびしいや。僕も、お母さんも、いきたくないんだよ。」
「どうして、田舎へいくの。」
「おじいさんが、だんだん年をとって、もう一人で田舎におくことができないからさ。おじいさんは、東京へくるのは、いやだというのだ。そして、昔から住んでいるところにいたいというので、しかたなくお父さんが、帰ることにしたのだよ。」
勇ちゃんの話を聞いて、清吉も、正二も、勇ちゃんのお父さんを親孝行だと思いました。
「この家へは、親類の叔父さんが入るのだから、僕、また遊びにくるよ。」と、勇ちゃんはいいました。
「叔父さんのお家は、どこにあるの。」と、正二が、聞きました。
「叔父さんの家は、ここから二十里もあちらの浜なんだ。たいだの、さばだの網にかかってくるって、僕のお父さんが、いった。」
「その叔父さんは、また自転車屋をやるの。」と、清吉がたずねました。
「さあ、それはわからないな。」
勇ちゃんの話しぶりでも、遠い浜から、町へ出てくるには、なにか子細があるように感じられたのです。しかし、そのわけは、わかりませんでした。ただ、にぎやかな町から、さびしい田舎へ帰るものと、また、ひろびろとした海の生活から、せまくるしい町へやってこなければならぬものと、人間の一生の暮らしには、いろいろの変化があるものだと、子供たちにも、感ぜられたのでした。
勇ちゃんの家が、田舎へ引っ越してしまってから、しばらく、自転車屋のあとは、空き家になっていました。
「いつ、勇ちゃんの叔父さんは、引っ越してくるんだろうな。」と、正二も、清吉も、閉まっている家の前を通るたびに、振り向きながら思いました。そのうちに大工が入って、店の模様を変えたり、こわれたところを直したりしていましたが、それができあがると、いつのまにかこざっぱりとした、乾物屋になりました。そして、チンドン屋などがまわって、開店の披露をしたのであります。
海産物のほかに、お茶や卵を売っていました。おじさんというのは、まだ若く、やっと三十をこしたくらいに見えました。それにひとり者で、いつも店にさびしそうにすわっていました。
「おじさん。」といって、清吉や、正二や、ほかの子供たちが、じきに遊びにいくようになったのも、一つは、勇ちゃんの叔父さんだったというので、まったく他人のような気がしなかったからでもありましょう。
なんでも珍しいことを知りたがる子供たちは、この店へやってくると、
「おじさん、海の話をしてよ。」といいました。
「は、は、は。」と、無口のおじさんは、笑っています。
「おじさんは、海の底へ入ったことがある?」と、正二が、聞きました。
「は、は、は。海の中へは、毎日のように入ったし、小さな舟に乗って、遠くへ釣りにいったこともある。」と、おじさんが、答えました。
「正ちゃん、おじさんは、海へくぐるのが、名人だって。そして、さんごや、いろんな貝や、魚など、なんでも手で取ってくることができるんだって、いつか勇ちゃんがいったよ。」と、清吉がそばからいいました。
「え、おじさん、ほんとう?」
「うん、ほんとうだ。」
「海の中、どんなだい。美しい? 水の中では、息ができないだろう。」
「舟から、機械で空気を送るんだねえ、おじさん。」
「そうなんだよ。海の中は、明るくて、きれいさあ。」と、おじさんが、答えました。
「どんなに、きれい?」
「そうだな、青白く、ぼうっとして、ちょっと口にはいえないなあ。」
「いろんな魚が泳いでいるの。」
「うん、上の方には、くらげが、傘のような形をして、泳いでいるし、すこし下の岩陰には、たこが腕組みをして、考え込んでいるしな。もっと下の方へいくと、赤い魚だの青い魚だのいろいろのやつが、まるで林の中をくぐるように、藻の間をいったり、きたりしているのだ。」
「ふうん、きれいだな。水族館へいってみたようなんだね。」
「水族館って、まだ見たことがないが、たぶん同じものだろうよ。」
「おじさん、それでも、海よりか、町のほうがいいの?」
「それは、海のほうがいいさ。」
「そんなら、なぜ、町へ越してきたの?」
こう、子供たちが問うと、おじさんは、それには答えずに、ただ、さびしそうに、笑っていました。
勇ちゃんの叔父さんは、年が若く、口数は少なかったけれど、まじめでありましたから、町の人たちもだんだんこの店をひいきにするようになりました。
二
ある日のこと、清吉のお父さんは、勇ちゃんの叔父さんが、海の生活をやめて、こちらへくるようになったわけを、外から聞いてきたのであります。
「清吉、こんな話は、あまり人にするでないぞ。お父さんが、あるところで聞いてきたのだからな。」
「怖ろしい話?」
「清ちゃん、だまって、聞いていらっしゃい。」と、そばから、姉さんがいいました。
「ある日のこと、沖合いで、汽船が衝突して、一そうは沈み、ついに行方不明のものが、八人あったそうだ。あの人は、海へくぐる名人だってな。それで、たぶんその船といっしょに沈んでしまったのだろうから、中へ入って、死骸をさがしてくれと頼まれたのだ。」
「あのおじさん、入ったのかい。」
「だれも、底が深いし、気味悪がって、いい返事をしたものがないのを、あの人は、一人で入ったのだ。」
「えらいなあ。」
「えらいとも。」
「いいから、清ちゃん、だまって聞いていらっしゃい。」と、お姉さんが、またいいました。
「あの人は、降りていって、船室の内へ入って、さがしたそうだ。けれど、一人の死体も見つからない。おかしいなと思ったが、上がってそのことを報告した。すると、いやそんなはずはない。船といっしょに沈んだのだから、船室の内にいるに相違ないというので、あの人は、また海の底へもぐったのだ。」
「怖ろしいなあ、おじさん、気味が悪くなかったろうか。」
「見つかったんですか。」と、いっしょに、お父さんの話を聞いていらしたお母さんが、いいました。
「また、船室へ入って、すみからすみまで、懐中ランプで照らして、さがしたけれど、やはり一人の死体も見つからない。まったくおかしなことがあるものだと思って、あきらめて出ようとしたとたん、ちょっと上を見ると、八人の死体が、ぴったりと天じょうについて、じっと自分の方を見下ろしていた。このときばかりは、さすがに、あの人もぎょっとして、もうすこしで後ろへひっくり返りそうになった。それから、潜水業というものが、いやになって、陸で暮らしたいという気が起こったという話なんだよ。」
お父さんの話は、終わりました。
聞いていたお母さんも、お姉さんも、清吉も、
「そうだったでしょうね。」と、そのときの、おじさんの気持ちに、同情されたのでありました。
清吉は、このことを、おじさんの店へ遊びにいっても、けっして、口にはしなかった。おじさんが、そのときのことを思い出すと悪いと思ったからです。
三
自転車屋の後へ乾物屋ができてから、二か月ばかりたつと、勇ちゃんの叔父さんは、不思議な病気にかかりました。それは、ふいに原因のわからぬ熱が出て、手足がしびれてきかなくなるのでした。とりわけ、西の空が夕焼けをする、日暮れ方に熱が出るというのであります。そして、近所の医者に見てもらったけれど、なんの病気かわからないというのでした。このことが、また近所のうわさになったのです。
「勇ちゃんの叔父さん、きょう病院へいったよ。」と、正二が、いいました。
清吉と正二は、学校の帰りに、乾物屋の前を通ると、おじさんが、店にすわっていました。二人は、入ってそばへ腰かけました。
「おじさん、顔色がわるいね。」
「病院へいって、見てもらってきたの?」
おじさんは、二人の子供の顔を見て笑いながら、
「海が、おれを呼ぶんだよ、子供の時分から、水をもぐってきたものが、陸へ上がりきってしまうと体がきかなくなって怖ろしいことだな。」
「そんなら、おじさん、また海へ帰るの。」
「ああ、海へ帰って、もぐりたくなった。そうすれば、体もじょうぶになるということだ。そうしたら、二人とも遊びにきな。浜は風があって、夏は涼しいぜ。えびでもたこでも、新しい魚を食べさせるから。」
「おじさん、このお店はどうするの。」
「この家か、また前の人たちがきて入るだろう。やはり、急に町から、田舎へいっても暮らしが立たないのだよ。」と、おじさんが、いいました。
「そんなら、また、勇ちゃんと遊べるんだね。」と、正二は、にっこりしました。店を出ると、
「僕、おじさんに別れるの、悲しいや。」と、清吉は、歩きながら、正二をかえりみて、いいました。
とんぼが、飛んでいました。