海からきた使い
小川未明
人間が、天国のようすを知りたいと思うように、天使の子供らはどうかして、下界の人間は、どんなような生活をしているか知りたいと思うのであります。
人間は、天国へいってみることはできませんが、天使は、人間の世界へ、降りてくることはできるのでありました。
「お母さま、どうぞ、わたしを一度下界へやってくださいまし。」
天使の子供は、母親に頼んだのであります。けれど、お母さまは、容易にそれを、お許しになりませんでした。
なぜなら、人間は、天使より野蛮であったからです。そして、我が子の身の上に、どんなあやまちがないともかぎらないからでありました。
「どうぞ、お母さま、わたしを一度下界へやってくださいまし。」と、幾度となく、その小さな天使の一人は、お母さまに頼みました。
毎夜のように、地球は、美しく、紫色に空間に輝いていました。そして、その地球には天使と同じような姿をした人間が住んで、いろいろな、それは、天使たちには、ちょっと想像のつかない生活をしていると、聞いたからでありました。
「それほどまでに、下界へいってみたいなら、やってあげないこともないが、しかし、一度いったなら、三年は、辛抱してこの天国へ帰ってきてはなりません。もし、その決心がついたなら、やってあげましょう……。」と、お母さまはいわれました。
美しい天使は、しばらく考えていました。そして、ついに決心をいたしました。
「三年の間、わたしは下界にいって、辛抱をいたします。そして、いろいろのものを見たり、また、聞いたりしてきます。」と答えました。
天国から、下界に達する道はいくつかありました。赤い船に乗って、雲の間や、波の間を分けてから、怖ろしい旋風に、体をまかせて二日二晩も長い旅をつづけてから、ようやく、下界の海の上に静かに、降りることも、その一つであれば、また、体を雲と化したり、鳥と化したり、露と化したりして、下界の山の上や、とがった建物の屋根のいただきや、野原などに降りることもできたのであります。
天使は、人間の力ではできないことも容易にされたのです。だから、小さなかわいらしい天使が、野蛮な人間の住んでいる下界へ降りてみたいなどと思ったのも無理のないことでありました。
小さな天使は、いつしか下界に降りて、美しい少女となっていました。
ある秋の寒い日のこと、街はずれの大きな家の門辺に立って、家の内からもれるピアノの音と、いい唄声にききとれていました。あまりに、その音が悲しかったからです。故郷といえば、幾百千里遠いかわからないからです。そして、帰りたいと思っても、いまや、そのすべすらなく、まったく途もなかったからであります。少女は、どうかして、やさしい人の情けによって救われたいと思いました。
空は、時雨のきそうな模様でした。今朝がたから、街の中をさまよっていたのです。たまたまこの家の前にきて、思わず足を止めてしばらく聞きとれたのでした。
そのうちに、街には、燈火がつきました。家のうちのピアノの音はやんで、唄の声もしなくなりました。けれど、哀れな少女は、この家の前を去ろうとせずに、そこに立っていました。
そのとき、りっぱな洋装をしてお嬢さんが出てきました。お嬢さんはこれから、どこかへ出かけられるようすでした。
「お姉さん、わたしもいっしょにつれていってください。」と、門に立っている少女は、呼びかけました。
お嬢さんは、びっくりして振りかえると、そこにかわいらしい、しかし寒そうな、さびしそうなようすをして、少女が自分の顔を見上げていましたので、この子供は、どこの子だろうかと、くびをかしげたが、思い出せませんでした。
「どうして、私がゆくところを知っているの?」と、お嬢さんはいいました。
「わたしは、お姉さんが、おいでなさるところをよく知っています。お姉さんは、これから舞踏会においでなさるのでしょう。わたしは、おじゃまをいたしませんからどうかつれていってください。わたしは、みなさんの踊りなさるのが見たいのです……。」と、少女は頼みました。
「いいえ、おまえさんをつれてゆくことなどはできません。はやく、お帰りなさい。」と、お嬢さんは、迷惑そうにいって、さっさとあちらへいってしまいました。
少女は、お嬢さんの行方をうらめしそうに見送っていますと、お嬢さんの姿は、夕もやのうちに隠れて、消えていってしまいました。少女は、しかたなく、さびしい方へと歩いてゆきました。
もう日は暮れかかっていました。街を離れると、家の数がだんだん少なくなりました。そのとき、途の上で、ちょうど自分と同じ年ごろの少女が、赤ん坊を負って、子守唄をうたっていました。この子守唄を聞くと、歩いてきた少女は、すっかり感心してしまいました。
「なんという、情けの深い唄だろう。天国にも、これより貴い唄を聞いたことはない。」と、思いました。そして、少女は、近づくと、赤ん坊を負って、唄をうたっている娘にやさしく問いかけたのであります。
「もう日が暮れるじゃありませんか。こんなにおそくなるまで、あなたは外に立って、唄をうたっておいでなさるのですか。」と、少女はいいました。
赤ん坊を負っている娘は、知らない少女ではありましたが、こうやさしく問いかけられると、目に涙をためて、
「お母さんが病気なもんですから、乳をたくさん飲ませることができないのです。なるたけ、赤ちゃんを眠らせるために、こうして、いつまでも外に立って、唄をうたっているのです。」といいました。
少女は、娘のいうことに、深く同情いたしました。
「そんなら、夜中でも起きて、あなたは唄をうたいなさるのですか?」
「夜中でも起きて、私は、牛乳を飲ませたり、泣くときは守りをしなければなりません。」と、娘は、答えました。
美しい、やさしい少女は、感心してしまいました。
「わたしが、今夜、あなたに代わって赤ちゃんの守りをしてあげましょうか……。」と、少女はいいました。
「ありがとうございます。母が、かえって気をもみますから、どうぞお気にかけないでください……。」と、娘は答えました。
少女は、しんせつが、かえって迷惑になってはいけないと思って立ち去りました。
「はやく、あなたのお母さんのおなおりなさるように祈っています。」と、少女は、立ち去るときにいいました。
少女が歩いてきますと、あとから赤ん坊を負った娘が追いかけてきました。そして、少女を呼び止めました。
「あなたのお家はどこですか……。」
少女は、さびしそうに、娘の顔を見て、微笑みながら、
「わたしの家は、遠いんですの……。」と答えました。
娘は、聞いてびっくりしました。
「あなたは、こんなに暗くなって、どうしてお家へお帰りになることができるのですか……。きたない家ですが、今夜、私の家に泊まっていってください。」と、娘は、真心をこめていいました。
「わたしのことなら、どうぞおかまいなく……。」といって、少女は、とっとっとあちらへ去ってしまいました。
その晩は、雨になりました。娘は、うす暗い家のうちで、赤ん坊の守りをしながら、先刻、前を通ったやさしい少女は、いまごろどうしたろうと思って、その身の上を案じていたのです。しかし、この夜から、お母さんの病気は、だんだんいいほうに向かいました。
いつのまにか、冬がきてしまいました。