二
孤児院からと称して、まだ、年もいかない子供を、
この社会には、うるさい程いろいろの法律があるのに、なぜ、この子供を虐待する親達や、大人を取り締まることができないのだ。
子供が、その両親や、祖父母を訴うることを許さずと法律で定めながら、なぜ、子供をも大事にしない親達を厳重に取り締まらないのだ。
子供は、筋肉に於て、智能に於て、いまだ発達を遂げていないのだ。すべてが弱いのだ。ただ
子供が、漸く両親の手から離れて、学校へ行くようになったとする。その学校というところはどんなところだ。資本主義の病毒は教化の精神を
少年期から、青年期に至るまでの学校生活は、たしかに牢獄に等しいものだ。
しかし、子供等は、また、これにも黙って服従しなければならない。大人が制定した、この社会の一切のものに対しては、大学時代にもなればいざ知らず、子供の時分は、それに対して怪しむことすら許されないのである。
この故に、私は、子供等の代弁者となり、ために抗議し、主張し、またその世界の一切を語らなければならぬ芸術の必要を感ずる。同時に、一方この時代の少年を
最近一、二年間、童話雑誌が
けれど、真に、その必要を感じて企てられた雑誌は、僅かに二、三に過ぎなかった。それも、一時は数えきれない程の作家の凡てが、子供を愛する真の純情も、又信念もなかったがために、
重ねて言うが、彼等は、徒に筆を採ったに過ぎなかった。ただ子供のものを書くのは楽だというような誤った見解から漫然として筆を採り、それを金に換えたまでの話だ。このことは、却って少年を毒し、ようやく生まれんとした真面目な少年文学の前途に一抹の害毒を流したのみであることは、多言を要しない。
彼等には、ほんとうに子供を愛する純情が欠けているのだ。また将来の新社会を造るものは子供であるという、社会的自覚の観念にも欠けているのだ。
このことは、今日の日本の文壇にとって、その無気力を意味し、たとえ恥辱とはなっても、決して名誉とはならないのである。革新期に際しては、一方に、大胆なる破壊はなされても、他方に、また細心の建設的用意がなければならぬ筈である。
畢竟するに、子供の文学の盛んにならないのは、以上のような理由があるからである。そして、また一方に少年文学に対する、慎重な批評が欠けていたことにも原因するであろう。
私は、文壇のなすべき事業の一つとして、少年文学の興起を望まずにはいられない。社会は