時代・児童・作品
小川未明
時代は、生動しています。それが、行き詰まった状態にあり、そして、暗ければ、何等かの自由と明るみを求めるものです。常に、人間の努力があり、諧謔が伴い、意志の発動する所以であります。
文学には、その影をうつしている。この意味に於いて、児童文学の作家は、社会の動きを認識しなければならない。なぜなれば、時代の影響と、その時代の感覚をもっとも鋭敏に反映するものは、児童だからです。要するに社会も、児童も、共に動いているからです。
故に、時代の色彩、感覚、方向を、はっきりと見得るものにとって、その芸術が生気を帯び、はつらつたることは、極めて当然のことであります。しからざるかぎり、芸術は、静的なものとなって、時としては倦怠した存在にしかすぎないことがあるでありましょう。
たとえば、技巧とか、主義とかいうものは、もとより作品を構成する上に於いて、重要なものに相違ないけれど、作品の新鮮味如何ということとは、全く別であります。動いている形に於いてのみ、新鮮さはあらわれます。作品を生動せしめなければならぬ所以です。
独り小説にかぎらず、童話にかぎらず、明日を約束するものには、自らなる明朗さがあります。それは、今日のなやみとあがきの中を通過して、生まれて来るからです。
いまの、苦しい時代の子供にも、明るい希望があるごとく、明日を約束する文学にもこの明るさがなければならぬ。
一言にすれば、作品に、指標を持ち、理想を持つことであるが、それが、体験から、生活感から生まれざるかぎり、概念化し、硬化し、ついに柔軟性を欠くに至っては、畢竟喜びに乏しく、流露たる趣を見ざるに至るものです。
対象を自己の感情に融かして見ることが必要です。今日の社会にしても、一つの動きのある絵として見、音のある詩として聞き、光と色の錯雑し、流転する世界として感じた時に、この慌しい現実にも、自ら夢幻の湧くがごときものです。近代の童話作家は叡智であると共に、多感的であらねばならぬ。
もう一つ、私達は、どうしても書かなければならぬという意気込みから、書く場合があります。良心から、正義観から、情熱の伴うのがそれです。作品を児童とかぎらず、親達にも読んでもらいたいと思う時です。
かかる場合、作家の胸の中に燃える情熱が作品に前へ、前へと、推進力を与えています。この種の作品は、必ずしも近代色を帯びると否とにかかわらず、教化の価値あるものであるが、作家は、独り児童を対象とせずに、今日の時代を認識し、関心を持つのでなければ、少なくも、新興童話と見做すべきものではないのでありましょう。
児童の生活、感覚、希望は、時代と共に動き、移りつつある。それに対する同感なくして、修辞や、技巧や、作家の主義に立脚するだけで、真の児童の世界や、その行動しつつある姿を描き出されるものでない。この時代が、いかになやみ、あがきつつあるか、そして、人々が、いかに明るさを求めつつあるかを一方に認識するものにとってこそ、またその時代に生活しつつある子供の心理、感情が理解されるのであります。要約すれば、その社会を批判する眼をもって、児童等を見た時に、児童の行動に、正当の判断を下すこともできれば、同情も感激も湧き、従って、作品に推進力が加わり、生動するのであります。
かくの如き、動的な、感激性に富む作品こそ、新興童話の名に、ふさわしきものと思うのであります。
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児童は、その時代を、本能的に、空想の世界に生活するものです。いいかえれば、ロマンチシズムのリズムは、彼等の脈搏であり、甘美なる幻想は、彼等の身体を包む雰囲気に他ならないのです。
故に、作品の持つ傾向如何によって、彼等の本能的生活を左右することができるものでない。ある作家は、児童を教化せんとするにあたって、自己の芸術の主張、主義を検討する前に、児童の世界、生活の、真に何たるかを深く認識すべきであります。
たとえば、昔のお伽噺には、月の中で、兎が餅を搗いているといっています。もし、昔の子供たちであったら、晩になって、月を仰いだ時に、そうかと思ったばかりでなく、そう見えたかも知れません。けれど、これをもって今の子供の頭が、著しく科学的になったということはできない。また、空想的に見ることは、正確な科学的智識を与える上に有害にこそなれ、決していいことでないとも主張することはできない。情緒の豊富なる発達を期待する子供の時代にあっては、芸術教育が、最も必要だからであります。児童等、自らが、また智識欲の盛んなるのみであって、そのために科学的の智識を授けることの、決して不可なる所以はないのであります。けれど、そのことと、児童自身の持つ世界とは、自ら別だということを知らなければなりません。
いま、小学校の三、四年にもなった子供達で月を仰いで、その中に、兎が餅を搗いていると考えるものはありますまい。恐らく、先生から教わったように、かつては、この地球と同じような遊星だったのが、いまや死滅したのだと考えるにちがいありません。けれど、子供達の考え方や、空想は、そこで止まるだろうか。
「どんなに、月の世界は寒いだろうか。なにか、棲んでいやしないか。もし、人間がロケット航空機に乗って行くことができたらどんなだろう……。」
恐らく、その空想は、停止するところがないでありましょう。かく、空想的なるところにこそ児童の本質があるのであって、彼等にとっては、現実とその空想とは、何等撞着するものでないのです。即ち、科学的智識を濾過し、これを背景として、ロマンチシズムの本領を発揮したのであります。月を暈取る陰影を、兎と見るも、死火山と見るも、要するに、彼等にあっては、ロマンチシズムの姿態であることにかわりがない。
殊に、童話作家は、自己の心情を純粋にすることを忘れて、成心を抱き、成人に対するがごとく、児童に対して、イデオロギー的であり、強圧的であってはならないのは、当然であるが、童話作家たることの至難は、実にこの点にあって、常に、児童の世界に住み、児童の心、児童の眼を忘れず、人間を見、自然に接するにあります。愛と理解と同化が、その作家の終始するところでなければならぬのであります。
一切の功利主義に基づく、童話を排撃するのもこれがためであって、概念的な、指導精神だけで、決して、いい童話が作られない理由もここにあります。たとえ、衝動は、外部からとしても、創造は、すべからく内部の醗酵に待たなければならない。すべて、真の意味の芸術はそうであるが、就中、より詩的要素を有する童話にあっては、ことさらに、自然姿態であり、純情にして、単鈍化されたものでなければならぬと思うのであります。なぜなれば、既成文芸の待つ、主義、傾向、流派、形式等によって、自然的な児童の持つ世界が、分裂さるべきものと考えぬからです。
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たとえ、児童に、それ自らの生活があるとはいいながら、所詮その時代の動きを反映せざるわけにはいかない。児童を通して、その時代を見ることもできれば、今日の時代や、社会を認識して、さらに児童の生活を真に見得ることができるのであります。児童とその時代、二つを離して、抽象的な、いかなる真の児童文学が存在するでありましょうか。真に、誠実にその時代の児童を理解することなしには、児童文学は、生まれて来ないのであります。
これを仔細に観察すれば、各家庭によって、児童の生活は異なるでありましょう。しかし、各家庭は、その時代を生活しつつあるのであって、これを大観すれば、すべてが時代を反映することになるのであります。この故に、「かく、児童は教化されなければならぬ」と、公式的に考える前に、もし公正ならば、社会なり、家庭なりをいかに改めなければならぬかを考うべきです。この意味からして新興童話の使命と意義には、幾多の複雑なる問題の含まれたるを知らなければなりません。
学校の先生も、家庭の親達も、すでに、児童が、社会、家庭、学校から、遊離して、生活しつつあるのでないと考えたら、そして、真の愛と理解とをもって接したら、その教化に、観察に、体験に、両者が同一の観点に立つことを見出したでありましょう。そして、新興童話の発生と、その意義についても、多大の関心を持つばかりでなく、その必要について、痛切に感ずるにちがいない。
新興童話は、今後、真の理解ある親達と先生の声援に待って、真の教化機関としての地歩を占めるに相違ないから。
思えば、多難なる社会であり、現実である。成人が、意識的に行動するのを、児童等は半ば無意識的に、衝動的に、盲目的に、もしくは宿命的に、生活しつつあるのであります。言い換えれば、先生や、両親達の時代に対する悩みは、その影を児童の生活の上にも反映しつつあるのであって、しかも、彼等は、その影を負って、次の時代を建設せんとしつつあるのであります。
この意味からしても、彼等の感情と心理を理解することは、即ち、彼等に対する真の愛でなければならぬ。また、成人は、彼等をいたわらなければならぬ。同情の眼をもって見なければならぬ。彼等は、幼いのである。何事にも嬉々として、いかなる困難をも凌いで行くであろう。ここに、また何人も予想することのできない、偉大なる創造力を蔵しているのであります。