穴の中から、頭を出して、いっさいを知りつくしたのねずみは、あひるが、不格好なようすで、あわてるのを見て、はじめはにくらしい奴だ、いいきみだというくらいに思ったのが、だんだん気の毒になりました。それには、前にこんなことがあったから――いつかこの流れへ下りた白鳥が、旅のおもしろい話をきかしてやるからと、たくさんの魚たちを集めておいて、ふいに、かわいらしい小ぶなを三びきも食べて、どこかへ逃げていってしまったことを知っていたからです。けれど、この愚かなあひるには、そんな芸当は、どう見てもできそうはありませんでした。それどころか、自分でぐるぐると繩をなにかの枝に巻きつけて、苦しまぎれに、ウエー、ウエーと悲鳴を上げているのでした。ちょうどその声は、ぶなの木がざわざわと体を揺すって歌うのに、調子を合わせて、頓狂な拍子でも取るようにきかれたのでした。
りこうなのねずみは、この風のうちに、いつもにない不安を感じたのです。昼間、もうだいぶ青々と伸びた麦圃を通っている時分にも、ただならぬ風のけはいを予知したのであるが、日が暮れてから、いっそうその不安は濃くなってきたのでした。
「この美しい、すみよかった場所がこんなになってしまった。このとおりあひるは縛られて明日の命がわからないし、ぶなの木は、根本が焦がされている。そして、川の魚も、私たちも、安心してはいられない。すべてのものが息詰まっているのだ。なにか思いがけないことでも起こらなければ、もう二度と昔のように、平和な楽しい太陽の光は見られないだろう……。」
穴の入り口から、夜の空を仰いで、こんなことを考え込んでいたのねずみの姿も、そのうち、いつしか消えてしまいました。
真夜中ごろ、子供は、あらしの叫びで目をさましたのです。小舎が、ぐらぐらと動いて、ブリキのはがれる音がしていました。
「たいへんな風だ。」
「いつでも逃げる用意をしていれよ。バケツとふろしき包みを忘れんでな。」と、父親がいいました。
子供は、外へ飛び出しました。空は、気味悪いほの白さで、ぶなの木が、腰を折れそうに曲げて、風の襲うたびにくびを垂れるのが見られました。
「父ちゃん、あちらの空が、火事のように明るいよ。」と、子供は、外から叫びました。
「大風のときは、そういうもんだ。このあらしが過ぎれば暖かになるぞ。」
ちょうどこのとき、その声を打ち消して、どっとたたきつけるごとく吹きつけた風に、小舎は、めりめりとこわれて、ブリキ板がどこかへ飛んでしまって、なにかにぶつかった音がしました。
「雨が降ってきた!」と、子供が、大声で告げました。
「さあ、いつものところへ逃げろよ。」と、父親はそこらにあったものをひっつかむようにして、闇の中へ駈け出しました。子供は、川ぶちまで飛んでくると、あひるは、いまにものどをくくられて死にそうな悲しい鳴き声をあげていました。子供は、刃先の鋭い小刀で、足を縛った繩を切りました。そして、そのままあひるを放して、バケツとふろしき包みを下げて、父親の後を追いかけました。
雨と風と雷の、ものすごい一夜でした。その夜が明けはなれたときに、流れの水は満々として、岸を浸して、春の日の光を受けて金色に輝いていました。また、ぶなの木は、古い枯れ葉をことごとく振り落として、その後から、新しい緑色の芽を萌していました。乞食は、ふたたびその木の下に寄りつかず、どこへいったやら、あひるの影も見えなかったのであります。いずれ彼らの消息は、りこうな、敏捷なのねずみによって、探ね出されて、ぶなの木や魚たちにもわかることでありましょう。