四
空井戸の中を覗くと、真暗であった。けれど、彼は、その井戸はいつかいろいろのもので埋っていて、其様に深くないことを知っていた。
中には、水がなかったけれど、落葉が溜ってきて、湿気ばんでいた。而して井戸の周囲には、苔が生えて、夜の靄は、この中から浮き上るように天上の方はぼんやりと霞んでいる。
落葉の匂いが、冷かに鼻に浸みた。正一は眼を上の方に向けていると円い穴は、直に青い空を円く限っている。ちょうど井戸の上は、青い空に掩われているように、他に何も見えなかった。
眼を上に向けて、もしや、鬼が来て、この中を覗きはしないかと仰いでいたけれど、誰も来て覗いて見るものもなかった。
その内に、ちらちらと星の輝くのが見え始めて来た。彼は、たとえ誰が来て、上から下を覗いても、中は真暗で見えないから見つかる気遣いはないと思っていた。
彼は、耳を澄していたけれど、何の声も聞えなかった。もう、今頃は、誰かが見付かった時分であろうと思ったが、皆んなの叫く声も聞えなかった。彼は、尚お声を潜めて、黙って、若しや鬼がこの上の辺りを通っているのではないかと思っていた。
空の色は、ますます青く冴えて、星の光りがはっきりと澄み渡って来た。
彼は、何となく心細くなったので、
「もう、いいぞ。」
と、井戸の内から叫いた。
その声は、穴の周囲に突き当って、上の方へは聞えなかったようだ。彼は、こう叫ぶと誰か来て覗きはしないかと、胸をどきどきさして竦んでいた。
自然に崩れて落ちる土の塊りが、ころころと転げて来て枯れ葉の上に落ちた。彼は、出て上を覗いて見ようと思った。
正一は、足を井戸の周囲に踏みかけた。けれど手に掴まる処がなかったので、容易に上ることが出来なかった。彼は、爪で、土を崩した。而して、其処に足をかけて、やっと片手を穴の上にかけることが出来た。
こんなことをする間にも、時間は余程たって、彼は、幾たびか上りかけては、下に落ちて穴の中で、尻餅を搗いた。而して、やっと土に塗みれて、井戸の上に出て見ると、もう、誰も、空地には居らなかった。
四辺は、眠ったようにしんとして、彼は、言うにいわれない頼りない悲しい感じがした。まだ四つか五つの時分、母が使にでも行って居なくなった時分がふらふらと浮んだ。ちょうどその時のような怨めしい、やるせない思いがした。心のうちで何時の間に皆んなは帰ってしまったのだろうと怪しまれた。見渡す限り、白い夕靄がかかっている。その中に、黒い森が、ぼんやりと浮き出ている。彼方の圃には、ひょろひょろとした枯た木が立っていた。
正一は、まだ誰か、その辺に残って居りはせぬかと、彼方、此方見廻しているうちに、誰か一人、十五六歩も隔って、白い靄の中に悄然として佇んでいるものがあった。
「オイ、誰だい君は。」
と、正一は呼びかけて、その方に歩いて行った。