小西は、うなずきました。岡田は、言葉をつづけて、
「おれも、出征する十日ばかり前のことだった。平常からかわいがっていたくりの木がある。秋になっておはぐろ色に実るのを楽しみにしていたのに、このごろたくさんありが上がったり、下がったりして、とうとう枯れ枝をつくってしまった。それで、ありの上がれないようにと、綿で幹を巻いたのだ。最初はありのやつめ、綿に足をとられて、困っていたが、そのうちに平気でそれを乗り越えて下から上がっていくもの、上から、小粒な透きとおる蜜液を抱いて下りてくるもの、綿の障害物などほとんど問題でないのだ。おれは、しゃくにさわったから、熱湯をわかして、かけてやったが、支那兵と同じくその数は無限なのだ。そこはありのほうが勇敢で、友の屍の上を乗り越えて、目的に向かって前進をつづけるというふうで、この無抵抗の抵抗には、こちらが、かえって根負けをしてしまったよ。そのとき、感じたんだ。この小さな虫ですらが、種族全体の幸福のためには、自分の死をなんとも思わないこと、その有り様を見て、驚かざるを得なかったのだ。」
「学ぶべきことかもしれないな。」
「いや、大いに学ぶべきことだよ。見たまえ、こんなところにもありがいるじゃないか。ほかの生物は生存競争に滅びても、協力生活をするありの種族だけは栄えるのだ、世界じゅうどこでも、ありのいないところはないだろう。」
「僕も、そんなことをなにかの本で見た覚えがある。」
「君が、花を見て考えていたときに、僕は、またありのごとく屍を乗り越えて、突進する自分の姿を空想していたのだな。それで、君が先に死んだら、おれは骨壺を負っていってやるぞ。」
「どうか、そうしてくれ。」
突如として、このとき、耳をつんざくような砲声が、間近でしました。短く、また長かった、二人の夢が破れたのです。
「前進。」
つづいて号令が、かかった。
終日、風の音と、雨の音と、まれに鳥の声しかしなかった平原が、たちまちの間に、草の木も根こそぎにされて、寸々にちぎられ、空へ吹き飛ばされるような大事件が持ち上がりました。大地をゆるがす砲車のきしりと、ビュン、ビュンと絶え間なく空中に尾を引くような銃弾の音と、あらしのごとくそばを過ぎて、いつしか遠ざかる馬蹄のひびきとで、平原の静寂は破られ、そこに生えている紫の花と白い花とは、思わず、恐怖にふるえながら、顔を見合ってささやいたのでした。
「なにが起こったのでしょう。」
「暴風雨がやってきたともちがいますね。」
ここに生えている木や、草たちは、ほんとうに雷鳴と、暴風雨よりほかに怖ろしいものが、この宇宙に存在することを知らなかったのでした。
「やはり、暴風雨でしょうね。いまにちょうが飛んできたら聞いてみましょう。」
いつも、暮れ方の陽が、斜めにここへ射すころ、淡紅色の小さなちょうがどこからともなく飛んできて、花の上へ止まるのでした。花たちは、そのちょうのくるのを待っているのであるが、今日にかぎってちょうは、どうしたのか、姿を見せなかったのです。まったく日が暮れかかると、平原は、静けさをとりもどしました。けれど、四辺には、なまぐさい風が吹いて、月の光は、血を浴びたように赤かったのでした。先刻二人の兵士が、腹ばいになって、話をしていた場所から、さらに前方、三百メートルぐらい距たったところで、
「小西、小西……。」
こう闇の中で友の名を呼びながら、戦友を探しているのは、岡田上等兵でした。
そのうち、彼は、足もとに横たわっている屍骸につまずいて危うく倒れかかったが、踏みとどまって、月の光でその顔をのぞくと、打たれたごとく、びっくりして、
「おい、小西じゃないか、やはりやられたのか。」
彼は、ひざまずくと、戦友の屍を膝の上に抱き上げて、
「おまえのいったことは、やはり虫の知らせだったな。とうとうやられたのか。しかしおれも、思うぞんぶん敵を討って、すぐ後からいくぞ。今夜だけさびしいだろうが、一人でここにいてくれ。明日の朝は、かならず迎えにくるから。」
岡田上等兵は、月光の下に立って、戦死した友に向かって、合掌しました。彼は、足もとに茂っている草花を手当たりしだいに手折っては、武装した戦友の体の上にかけていました。そして、味方の陣営に向かって、いきかけたのであるが、またなにを思ったか、引き返してきて、戦友の腕についている時計のゆるんだねじを巻きました。彼は、指先を動かしながら、
「さびしくないように、小西、時計のねじを巻いておくぞ。今夜一晩、この音をきいていてくれ……。」
岡田上等兵は、なんといっても答えがなく、安らかに眠る友の顔を見つめて、熱い涙をふきながら、しばらく別れを惜しんでいました。
その後、彼は、かつての約束を守って、戦友の骨壺を負い、前線から、また前線へと野を越え、河を渡って、進撃をつづけているのでありました。