けれど翁には、この声が聞えなかった。再び子供は、
「先生。」と呼びかけた。
けれど翁の
「先生!」と
この時、翁は空想から醒めたもののように、静かに身を起して端然として子供の前に起ち上って、自分の前に寒さと一種の畏敬の念に
子供は、今迄斯様優しい、懐しい、顔を仰いだことがなかった。
――険しい眼――輝く
子供の胸の中は、一時に温かく血潮が廻った。子供の眼にも希望の輝きが
「先生!」と呼びかけて、その声が
「人生とは
「よく聞いた!」と翁はいった。この時翁の白い姿は、子供の目に――神秘の
家の裡が薄暗くなるまで、外の吹雪は募った。さらさらといって粉雪の風に
翁は、高く壁に吊された黒板の前に立った。眤と真黒く拭い清められた板を見上て、やがてそれを
「あれに、私がいう数程
子供は翁に命ぜられたまま黒板の前に進んだ。けれど子供の
子供は白墨を握って、再三、爪立をしてはその黒板に白墨を付けようと試みた。けれど僅かに手が付くばかりで充分に達しない。
翁は黙って、子供のする様を
子供は、早速考えついて、
翁は、ベンチの上に立った子供を見上た。――短い破れた
「その黒板にはっきりと三万六千の点数をお書きなさい。」
と子供に命じた。
子供は黙答して、
「
室内は再び
外には、相変らず吹雪の音がする。時計の針はセコンドの
いつしか四時は鳴った。
子供は、
時計の針は四時三十分を指した。
冬の日は暮れるに早い。この時は全く室の裡は薄暗くなった。――子供はちょうど三万六千点を黒板に書き終えたのである。
「先生書きました。」といって、子供は白墨を握ってベンチに立ったまま翁を顧みた。翁は立上って黒板を睨んで、ああ、それでよい。一
その後翁は、
もう、壁は落ち、瓦は破れて、扉は壊れて修繕するものがない。今では、一人の婆さんが留守居になって住んでいる。落日は今でもその白壁に纏った紅い蔦の葉を鮮かに照すのである。