ハツクニシラススメラミコト
反乱を平定し、各地のまつろわぬ人々を平定した将軍たち
◆「ハツクニシラススメラミコト」と称えられる
疫病を鎮めたミマキイリヒコは、伯父オホビコ、その子タケヌナカハワケ、武将のヒコ
イマスをそれぞれ高こ志し(北陸)、東国、丹波に遣わしている。
その中のひとりオホビコは北陸に向かう途中、謎めいた歌を歌う少女に出会う。歌の内
容は天皇が殺されるという衝撃的なものだった。不吉なものを感じとったオホビコはとっ
て返し、天皇に奏上。すると天皇は、それは兄のタケハニヤスヒコの反逆を予言するに違
いないとし、オホビコとヒコクニブクを討伐に向かわせた。
オホビコ軍が山やま代しろ国の和わ訶か羅ら河がわに至ると、タケハニヤスヒコの軍勢
が待ち受けていた。タケハニヤスヒコが先に矢を放ったが、誰にも当たらない。次にヒコ
クニブクが矢を放つと、見事タケハニヤスヒコに命中。反乱の首謀者はあっけなく命を落
とした。
それを見たタケハニヤスヒコ軍の兵は、蜘く蛛もの子を散らすように逃げ惑った。そこ
をオホビコ軍に攻め立てられたからたまらない。恐ろしさのあまり糞を漏らし、さらには
逃げ道を塞がれて散々に斬り殺されてしまったという。
その後オホビコは高志を無事平定しながら北上。帰途、東国平定の征旅にあったタケヌ
ナカハワケと出会った。その場所は相あい津づ(会津)と名づけられたという。
この将軍派遣は四し道どう将しよう軍ぐんと呼ばれているが、『古事記』では三道にし
か派遣されていない。『日本書紀』ではもうひとりキビツヒコが西さい海かいに派遣さ
れ、吉き備びを平定している。
かくして諸国が平定された結果、人民は富み栄えた。そこで人民に対して貢物の献上が
命じられ、初の税が取られることになった。こうした事績からミマキイリヒコは「ハツク
ニシラススメラミコト」と称えられたのであった。