山背大兄王襲撃
推古天皇の遺言から始まった皇位継承者騒動
◆皇子は推古天皇の遺言を理解しなかった
六二八年、在位三十六年にして推古天皇は後継者を指名しないまま身み罷まかった。そ
のため、中央では後継者をめぐって混乱が起きる。
亡くなる直前に天皇は、病床から遺言を残していた。後継候補のひとりである田た村む
らの皇み子こには「天下を治めるのは大役です。私はいつもお前を重く見てきました。慎
重に物事を見て、何事も軽々しく言ってはいけません」と伝え、一方、もうひとりの後継
候補である 戸皇子の子・山背大兄王に対しては、「お前は未熟だから、こうしたいと思っ
てもあれこれ言わず、必ず人の意見を聞いて従いなさい」と伝えたとされる。これはどち
らの後継を意図したものなのか。群臣たちの間でも意見が分かれたが、結局、田村皇子を
推したものだという意見が勝った。
推古天皇の真意については、蘇我氏が田村皇子を推すことを予想して、山背大兄王が蘇
我氏の餌え食じきになることを恐れ、諭さとしたものだとする見方がある。
だが、山背大兄王はこの真意を理解せず、皇位を望む動きを見せる。配下の者を遣わし
て、馬子の跡を継ぎ蘇我本宗家の主となっていた蝦夷えみしに詰問を行なっているのだ。
しかし、山背大兄王派の首魁境さかい部べの摩ま理り勢せが、蝦夷によって殺されたのを
受けて、山背大兄王派は抑え込まれ、蘇我氏の推す田村皇子が即位して舒じよ明めい天皇
となった。舒明天皇は初の遣けん唐とう使しの派遣を行なったことで知られる。
舒明天皇が崩御すると、その皇后であった皇こう極ぎよく天皇の世となる。この時代の
政治を主導したのは蝦夷の子、入鹿だった。入鹿は舒明天皇の擁立以来、蘇我氏と対立し
ていた山背大兄王の存在を邪魔に感じていた。そこで、斑鳩宮にいた山背大兄王を襲い、
一族もろとも自害に追い込んでしまう。入鹿の父、蝦夷はこの蛮行を非難したが、蘇我氏
の権力はより強固になった。