『日本書紀』との違い
コラム 渡来人によってもたらされた外来文化
応神天皇の御代は大陸の人々の大規模な渡来があったことでも有名である。『日本書
紀』には「百済王が縫衣工女を貢ぐ」をはじめとした渡来人がやってくる様子が書かれた
記述が見られる。
とくに秦氏の祖先となった弓ゆ月づきの君きみや、東やまとの漢あや氏の祖となったア
チノオミら、のちの有力渡来人の祖先も渡来している。さらに、呉ごから縫衣工女を派遣
してもらうなど、有能な人材を大和朝廷側から求めてもいる。そうした交流に伴い、「千
せん字じ文もん」という習字の手本など、数多くの外来文化が入ってきたと考えられてい
る。
『日本書紀』垂すい仁にん天皇紀に記載があるアメノヒボコも渡来人の増加を象徴する伝
承といえる。
持参した財宝に玉、鏡、剣という三種の神器を含んでいるのも興味深い。彼自身を実在
の人物とする説もあり、朝鮮半島から金属の精錬技術をもたらした象徴的な人物だったと
いう。
朝鮮半島の動乱などにより、古代の日本には、何度か大陸からの渡来ブームがあったよ
うだが、この五世紀前後のブームが後世に与えた影響は大きく、思想、文化、治水事業な
ど数多の先進文化が輸入されて、日本の文化、国家に飛躍的発展をもたらす契機となって
いる。こうした人々は、初め西日本を中心に配置され、のちに東国にも配置されるように
なり、全国規模での開墾に寄与するようになっていった。
それに伴い、渡来人らの活躍も数多くなり、治水事業を指揮する一方、政界にも進出
し、太子のイザホワケを救うなどしている。官人としての活躍も目覚ましく、『日本書
紀』の編纂において渡来人もしくは渡来系の人々の貢献も特筆に値する。
六世紀以降に花開いた飛鳥・白はく鳳ほう文化、さらにはのちの奈良時代の文化は、五世
紀に渡来し、海外の先進文化をもたらした人々の手で継承されていったものなのである。