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第六章の人々 大オホ雀サザキノ命ミコト(仁徳天皇)

时间: 2024-01-23    进入日语论坛
核心提示:【第六章の人々】  大オホ雀サザキノ命ミコト(仁徳天皇)  仁政を行なう一方で、皇后の嫉妬に翻弄された天皇 第十六代仁徳
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【第六章の人々】
  大オホ雀サザキノ命ミコト(仁徳天皇)
  仁政を行なう一方で、皇后の嫉妬に翻弄された天皇
 第十六代仁徳天皇は、ホムダワケ(応おう神じん天皇)の第四子で名をオホサザキとい
い、幼い頃から利発で容姿も性格も優れていたと伝えられる。ホムダワケの崩御後に後継
者問題が起きると、本来即位すべき皇太子である弟ウヂノワキイラツコが、年上で徳もあ
るオホサザキこそ皇位に就くべきだと主張して兄弟ともに譲り合い、空位が生じてしまっ
た。ウヂノワキイラツコは、『古事記』によると夭折し、『日本書紀』においては長生き
しては天下のためにならないと自ら命を絶ったため、オホサザキは嘆きつつもやむなく即
位したという。
 その際、駆けつけたオホサザキに対し、ウヂノワキイラツコは、これは天命であり、オ
ホサザキが「聖ひじり」であることを伝え、息絶えている。この逸話には、当時日本にも
たらされていた儒教思想が反映していると思われる。
 ただし、この皇位の譲り合いについては、実際にあったのは皇位をめぐるオホサザキと
ウヂノワキイラツコの争いであり、最終的にオホサザキがウヂノワキイラツコを殺害して
即位したのだとする異説も唱えられている。
 かくして即位したオホサザキの都は難波高津宮(現在の大阪市中央区)に置かれたが、
オホサザキは衣食住すべてにわたって質素を旨とした。
 民の家々の竈かまどから煮炊きをする煙が昇っていないのを見て窮乏を憂い、三年間の
課税を免除したという。「仁徳」という諡し号ごうも、天命を受けて、このように仁政を
敷いたことによる命名である。
 また「記紀」は、オホサザキが茨まむ田たの堤つつみを築き、大溝や堀江を開き、橋を
架けるなどの土木工事を推進して河内平野を開発したと伝えている。また、大陸とも積極
的に外交を進め、任那みまなに日本府を設置し、進んだ文物や人材を積極的に導入した。
 このような卓越した政治手腕の持ち主だったうえ、その治世は天候にも恵まれ、民の家
の竈からは炊すい煙えんが上がるようになったという。このように、オホサザキは理想的
な聖帝としてのイメージで伝えられているのである。
 しかしオホサザキは、一方では俗の面も持ち合わせている。皇后のイハノヒメは大変嫉
妬深く、オホサザキと女性たちとの逸話には必ずといっていいほど皇后も登場する。
 オホサザキが、皇后の留守中に新たな妃を招き入れたところ、それを知った皇后は激怒
し、別居してしまう。オホサザキは戻ってくるよう説得を続けたが、『古事記』において
は仲直りするものの、『日本書紀』では、結局そのまま皇后は薨去してしまったという。
 ただし、自分の墓を造るために、のべ一四〇万人もの役民を動員し、多くの埴はに輪わ
を並べたのも、民のためならと宮殿の雨漏りにも耐えた姿とは対照的である。
 このとき造営されたのが、大阪府堺市にある全長約四八六メートルの世界最大の前方後
円墳である大だい仙せん陵りよう古墳だとされてきたが、これは仁徳天皇の陵墓・百も舌ず
鳥の耳みみ原はらの中なかの陵みささぎではないと疑問視する説もある。仁徳天皇は八十
三歳で崩御したとされるが、古代の天皇がしばしば現実離れしているほどの長命を保った
と記されているのと異なり、信しん憑ぴよう性せいのある年齢である。『日本書紀』にお
いて、「大おお王きみ」という言葉が初めて使われたのは、この仁徳天皇の時代である。
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