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第八章  帝紀および本辞、すでに正実に違ひ

时间: 2024-03-26    进入日语论坛
核心提示:第八章 帝紀および本辞、すでに正実に違ひ  「記紀」を紡いだ人と歴史の時代【第八章あらすじ ─律令国家日本の誕生─ 】 
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第八章
 帝紀および本辞、すでに正実に違ひ
  「記紀」を紡いだ人と歴史の時代
【第八章あらすじ ─律令国家日本の誕生─ 】
  『古事記』で省略された律令国家誕生に至る日本古代史
『古事記』では、オケ(仁にん賢けん天皇)以降トヨミケカシキヤヒメ(推すい古こ天
皇)に至る歴史は皇統系譜が記されるのみだが、『日本書紀』ではより詳しい記述が見ら
れる。第八章では『日本書紀』に従って、律りつ令りよう国家の成立に至る歴史を見てい
こう。
 仁賢天皇が崩御すると、武ぶ烈れつ天皇がその跡を継ぐ。しかし、子供がないまま若く
して崩御したため、応おう神じん天皇五世の子孫男お大お迹どの王おうが即位して継けい
体たい天皇となる。
 ちょうどその頃、朝鮮半島では倭(日本)が拠点としていた任那みまなが隣国新羅しら
ぎの圧迫を受けていた。倭は多数の兵を任那へ派遣するものの、北九州の豪族・筑つく紫し
の君きみ磐いわ井いがそれを阻む。「磐井の乱」と呼ばれるこの乱はほどなく鎮圧され、
大和朝廷の政権基盤は北九州に及び、強固なものとなった。その後、継体天皇が没する
と、安あん閑かん天皇、宣せん化か天皇を経て欽きん明めい天皇の治世となる。欽明天皇
は部べ民みん制せいの組織化や屯倉みやけの展開など王権の強化を進めた。日本に仏教が
伝来したのもこの時代である。
 次の敏び達だつ天皇の時代には、仏教を巡って、受容派の蘇そ我が氏と排はい斥せき派
の物もの部のべ氏とが激しい火花を散らす。敏達天皇の跡を継いだ用よう明めい天皇の時
代にも対立は続くが、最後は蘇我氏が物部氏を滅ぼした。その蘇我氏を率いる蘇我馬うま
子こは、崇す峻しゆん天皇を立てて政治の実権を掌握。その権力は絶大で、反発した崇峻
天皇をも暗殺してしまう。
 ここで登場したのが初の女帝・推古天皇である。用明天皇の妹で敏達天皇の后である彼
女は、 うまや戸どの豊とよ聡と耳みみの皇み子こ(聖徳太子)を摂せつ政しように据え
て政治を任せた。太子は、「冠位十二階」「憲法十七条」の制定などを通して、中央集権
体制の確立を進めるとともに、仏教の振興にも力を注ぎ、遣けん隋ずい使しの派遣など外
交面でも功績をあげた。
 推古天皇の崩御後、皇こう極ぎよく天皇の時代になると、蘇我入いる鹿かが実権を握
り、蘇我氏は専横を極める。入鹿は対立していた聖徳太子の子・山背大兄王を滅ぼし権力を
強めるが、蘇我氏への反発も高まる。
 やがて中なか臣とみの鎌かま足たりと中なかの大おお兄えの皇み子こが立ち上がり、六
四五年に蘇我入鹿を打倒。皇極天皇のあとを受けた孝こう徳とく天皇のもと、「大化の改
新」と呼ばれる新たな政治体制が始まった。孝徳天皇の崩御後には皇極天皇が斉さい明め
い天皇として再び即位したが、その頃に朝鮮半島では百済くだらが滅ぼされている。朝廷
は百済再興のために兵を派遣するものの、白はく村すきの江えの戦いで大敗を喫してしま
う。
 その後、中大兄皇子は即位して天てん智じ天皇となるが、その没後に「壬じん申しんの
乱」が勃発。これに勝利した天てん武む天皇は律令制度の確立に尽力する。次の持じ統と
う天皇は天武天皇が発した律令制度を強化し、ここに律令国家としての日本が成立した。
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