崇仏論争
蘇我氏台頭によって表面化した崇仏派と廃仏派の宗教戦争
◆守屋は二度にわたり仏像を廃棄する
欽明天皇の没後に皇位に就いたのが敏達天皇である。この時代に蘇我馬子が大臣として
登場する。新興豪族であった馬子は、敬虔な仏教崇拝者だった。高こう句く麗りの僧恵え
便べんを師として修行を行ない、出家させた三人の尼を敬った。また、仏殿を造ってそこ
に納めた仏像を熱心に礼拝するなどして、積極的に仏教を取り入れようとした。
これに対して、強烈な敵対心をむき出しにしたのが日本古来の神々を信奉する物部氏と
中臣氏だった。両氏は馬子の父稲いな目めの代に、国内に疫病が流行したことをあげつ
らって、物部尾お興こしが稲目の建てた向むかい原はらの寺を焼き払い、仏像を難波なに
わの堀ほり江えに捨てるという過激な行動にまで出ている。蘇我・物部の争いは、馬子、守
もり屋やという次の世代に移っても激しさを増す一方だった。またも疫病が流行った際に
は、守屋が馬子の仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に投げ捨てるという行為に出る。敏達天
皇が崩御した際にも、埋葬まで遺体を安置する殯もがりの宮みやで行なわれた祭祀で、守
屋は馬子を嘲笑し罵ののしったという。しかし、これを馬子が余裕で切り返したため、両
者の敵対心は、いっそう強まった。
では、いったいなぜ蘇我氏は仏教を積極的に受け入れたのか。蘇我氏はもともと東やま
との漢あや氏をはじめとする渡来系氏族を支配下に置き、彼らから仏教の知識を得ていた
とされる。そうした人々との関係に加え、仏教の持つ先進性や科学技術を取り入れようと
する狙いがあったとされる。
これに対して物部氏の廃仏の背景には、祭祀氏族の中臣氏がともに仏教に反対している
ことから、今までの神を中心とした宗教体制のなかに仏が入ることで、いずれ自分たちの
存在価値がなくなることへの警戒心や恐れがあったといわれる。
しかし、一方で両氏の対立は純粋に政治的な対立であり、仏教をめぐる争いは脚色され
たものとする説も存在するのである。
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