白村江の戦い
激動の東アジア情勢と日本水軍の壊滅を呼んだ拙劣な戦略
◆皇子を恐慌に陥らせた大敗
六五五年、孝徳天皇が没したのち、斉明天皇として再び皇位に就いたのが先代の皇極天
皇だった。こうして一度退位した天皇が再び即位することを重ちよう祚そといい、こちら
も歴代天皇では初めてのケースだった。『日本書紀』において斉明天皇は「興きよう事じ
を好む」とあり、政務は中大兄皇子に任せ、自身は様々な造営事業を実施したといわれ
る。多くの人々を動員して水路を掘らせたり、石の丘を築いたりしたため、人々の非難を
浴びたという。
海外に目を向けると、この時代は東アジア情勢が激変している。朝鮮半島では新羅が国
力を増強し、唐とうと結んで日本の同盟国、百済に対する侵攻を開始。不意を突かれた百
済は、六六〇年に降伏し、あっという間に滅亡してしまう。
しかし、その直後から鬼き室しつ福ふく信しんをはじめとする百済の遺臣たちが、国家
再興を目指して運動を始める。彼らは日本に対して援軍を求めた。これを受けて斉明天皇
は、人質として来日していた百済の王子余よ豊ほう璋しようを百済王に冊さく封ほうして
送り返すことを決定。そして、自ら援軍を率いて大和を発ち、博多湾岸まで出向いた。し
かし、実際に出兵する前に、病に倒れて没してしまう。
斉明天皇の死後、すぐに中大兄皇子が即位して天皇の位に就くと思われたが、即位しな
いまま政務を執る称しよう制せいという形で、実に六年もの間、皇位には就かなかった。
これほどまでに即位を延ばした理由については諸説があり定かではない。
とはいえ、中大兄皇子が実質的な最高権力者である事実に変わりはない。全軍を指揮し
て朝鮮半島への出兵を強行する。しかし、まもなく百済の遺臣の間で内紛が起きて、余豊
璋と鬼室福信が対立し、福信は殺害されてしまう。
百済の内紛を好機と見た唐・新羅連合軍は陸海両面から日本と百済の拠点周留城に迫る。
日本の水軍は、索敵をしないままに唐水軍に突撃を敢行したところ、唐水軍に包囲され壊
滅状態となった。百済王余豊璋は高句麗へと逃亡したという。
こうして百済復興の夢ははかなく消滅し、百済の遺臣や遺民たちが大量の亡命者となっ
て日本へ渡ることになる。その後、唐・新羅は高句麗を滅ぼすと、今度は新羅が離反し、唐
を朝鮮半島より追う。東アジアにおける戦争はしばらく続いた。
白村江の敗北後、中大兄皇子は政治改革に邁まい進しんするとともに、国防を強化し
た。のちには唐とも国交を回復している。そして、ある程度国力が整ったと判断したらし
く、六六八(白はく雉ち七)年正月にようやく即位して天智天皇となったのである。