律令国家の完成
天武天皇の意思を貫徹させながら守り続けた孫への皇位継承
◆草壁皇子の死とともに即位を決意する
野讚良皇女の称制も四年目に入った六八九年、皇太子・草壁皇子が若くして亡くなって
しまう。すると、その翌年、 野讚良皇女は即位。持じ統とう天皇の登場である。
この即位はたとえ天武天皇の皇子であっても、ほかの女性から生まれた皇子ではなく、
草壁皇子の血を引く軽皇子(のちの文もん武む天皇)を後継者にしようとしたためといわ
れている。よく天てん孫そん降こう臨りんにおけるアマテラスからニニギに対して行なわ
れた葦原中国の支配権移譲が、この祖母・持統天皇から孫・軽皇子への譲位を正当化するため
に作られたものといわれるのは、このためである。一方、太政大臣には高市皇子を指名
し、強引な後継への不満を抑えるための施策を採ったと考えられている。
即位後の持統天皇は、天武天皇が進めてきた改革路線を継承し、天武天皇が目指してい
た政治を次々に実現させていった。称制時代の六八九年には、日本初の令(行政法)飛鳥
浄御原令が、その翌年には戸籍である庚こう寅いん年ねん籍じやくが施行されている。こ
れにより口く分ぶん田でんを支給する際の基本台帳が成立したことになり、税制が円滑に
進行できるようになった。そして、六九四年、日本初の条坊を備えた都城・藤ふじ原わら京
きようが完成し、遷都が行なわれている。二〇〇七年の調査では藤原宮跡から日本最古の
貨幣・富ふ本ほん銭せんや水晶などが入れられた須す恵え器きが出土し、藤原宮にて国内最
古の地鎮祭が行なわれたとされている。また、藤原京は七〇七年に遷都が行なわれた平城
京よりも大規模であったことも判明している。
持統天皇は、吉野への行幸を計三一回も行なっている。これには夫への追憶、天皇家の
安泰を願うため、統治者としての霊性を高める霊たま振ふりなどとする説があるが、はっ
きりしていない。
六九六年、太政大臣・高市皇子が死去。軽皇子の対抗馬となる有力な皇子がいなくなった
ところで、持統天皇は譲位を行なった。
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