【第八章の人々】
天てん智じ天てん皇のう
蘇我氏を滅亡させ大化の改新を成し遂げた気鋭の皇子
父は舒明天皇、母は皇極・斉明天皇となった宝たからの皇ひめ女みこで、即位前の中大兄
皇子の名が有名。本来の名は 城皇子とも。大兄とは皇位継承候補者への通称で、中大兄
と呼ばれるようになったのは異母兄に古人大兄皇子の存在があるからである。
六四五年の乙巳の変で蘇我入鹿を殺害すると、中大兄皇子は叔父である孝徳天皇の皇太
子として二十歳にして国政の実権を握り、初めて年号を立てて大化元年とすると大化の改
新と呼ばれる諸政策を実行する。この間、中大兄皇子は異母兄の古人大兄皇子と、義父で
右大臣の蘇そ我がの倉くらの山やま田だの石いし川かわ麻ま呂ろを粛清している。
だが、やがて孝こう徳とく天皇との対立が深まり、その没後は母の宝皇女を再び即位さ
せて斉さい明めい天皇とした。この頃から中大兄皇子に対する不満が多くなる。孝徳天皇
の皇子で皇位継承の有力候補とされた有あり間まの皇み子こは、謀反のかどで処刑され
た。
唐に滅ぼされた百済の遺臣が日本に救援を求めてきたことは、内政の行き詰まりから群
臣の目をそらさせる絶好の機会だった。中大兄皇子は、ほぼ全国から兵を召集し、自らも
一族を率いて筑前に宮廷を移した。だが、斉明天皇はこの陣中で病没し、百済に向かった
日本軍も白はく村すきの江えの戦いで大敗を喫する。その後も中大兄皇子は即位せず、皇
太子のままで再び内政の改革を始める。そして、周囲の反対を押し切って飛鳥から近江の
大津へ遷都し、六六八年についに即位して天智天皇となった。
だが即位の翌年には、最大の理解者で協力者の中臣鎌足が病没する。さらに、天智天皇
には四人の皇子がいたが、ひとりは夭逝し、残る三人は母親の身分が低いため皇位に就け
る可能性は少なかった。それでも天智天皇は長子の大おお友ともの皇み子こを愛し、次期
天皇にと望んでいた。そこで、大友皇子を太だ政じよう大だい臣じんとし、皇太弟である
大海人皇子を事実上、追放した。しかし、これが天智天皇の死後、皇位をめぐる壬申の乱
を引き起こすことになる。







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