仁徳天皇 (にんとくてんのう)
● 活やくした時代 4世紀後半~5世紀前半 古墳時代(こふんじだい)
● 活やくしたこと
391年 倭(わ むかしの日本の呼び名)軍が 朝鮮の百済(くだら)や新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)と戦う。
仁徳天皇は、このころには応神天皇(おうじんてのう)の子として生まれた。
404年 倭軍(わぐん)は朝鮮の高句麗(こうくり)との戦いに敗れる。
413年 倭王(わおう 日本の王)の讃(さん)が中国の東晋(とうしん)に使者を送り、おくり物を献上(けんじょう)する。
この倭王(わおう)の讃(さん)が仁徳天皇であると考えられている。
421年 倭王(わおう)の讃(さん)が中国の宋(そう)の皇帝から称号(しょうごう)を与えられる。
438年ごろ 仁徳天皇が死去する?
● 人 物 評
仁徳天皇は、たいへん慈悲(じひ)深く、人にやさしい天皇であったと伝えられている。長年の朝鮮との戦いで倭(わ むかしの日本の呼び名)の国力がおとろた。そのため、農家から料理の時のけむりが立ちのぼらないのを見て、農民は食料がないほどまずしいくらしをしていることを知り、3年間、税を取り立てなかったとされる。仁徳天皇の古墳(こふん)は、面積ではピラミッドを抜いて世界最大のお墓である。これを作るために1000人の人間が毎日働いて4年近くかかるとされる。このころになると、天皇の力もある程度固まってきたと考えられる。この時代に、ピラミッドに引けをとらない巨大な古墳を建築した人びとの団結に敬意を表したい。