小村寿太郎(こむら じゅたろう)
● 活やくした時代 1855年~1911年
江戸~明治時代
● 活やくしたこと
1855年 飫肥藩(おびはん 宮崎県)の藩士の小村寛平(こむら かんぺい)の長男
として生まれる。
1861年 小村寿太郎が藩校(藩のつくった学校)の振徳堂(しんとくどう)に入る。
1867年 大政奉還(たいせいほうかん)
江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
王政復古を宣言する。
天皇中心の政治を行う。
1870年 小村寿太郎が東京に出て、大学南校(今の東京大学)に入学する。
1875年 小村寿太郎が文部省の留学生として、アメリカのハーバード大学に行き、
法律を勉強する。
1880年 小村寿太郎が日本に帰国して、司法省に入る。
1884年 小村寿太郎が外務省の翻訳局(ほんやくきょく 外国語を日本語になおす役職)
に移る。
1893年 外務大臣の陸奥宗光(むつむねみつ)に才能を認められ、小村寿太郎が北京
(ぺきん 清帝国の首都)の公使館の参事官になる。
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各国の公使を務める。
1901年 小村寿太郎が第1次桂(かつら)内閣の外務大臣になる。
1902年 小村寿太郎が、ロシア帝国の南下に対抗するため、日英同盟(にちえいどうめい)を
結ぶ。
1904年 日露戦争がおこる。
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日本は大苦戦しながらも、何とかロシア帝国に勝つ。
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1905年 小村寿太郎がアメリカのポーツマスでロシア帝国とポーツマス条約を結ぶ。
ポーツマス条約
1 韓国を日本が支配することを認める。
2 ロシアは旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)を日本にゆずる。
3 南満州鉄道を日本にゆずる。
4 南樺太(みなみからふと サハリン)を日本にゆずる。
1906年 小村寿太郎が外務大臣を辞任する。
1908年 小村寿太郎が第2次桂(かつら)内閣の外務大臣になる。
1911年 小村寿太郎が不平等条約の改正(関税自主権の獲得)に成功する。
関税自主権の獲得
外国からの製品に関税(かんぜい)をつける権利を獲得した。
それまでは外国からの値段の安い製品に関税をつけることが
できなかった。
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小村寿太郎が外務大臣を辞任する。
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その3か月後、病死する。(57才)
● 人 物 評
小村寿太郎にとって、ロシア帝国と結んだポーツマス条約が一生の正念場(しょうねんば)であった。日本の国民は日露戦争でロシア帝国に勝ったと思っていたが、実際には、ロシア帝国には、まだまだ強大な軍隊が残っており、戦争を続けることができる状態であった。一方、日本はロシア帝国の旅順要塞(りょじゅんようさい)を落とし、バルチック艦隊を全滅させたとはいえ、これ以上の戦争はできない状態であった。日露戦争の結果は、日本、ロシア帝国ともに痛み分けといったところだったのである。そのため、日本はロシア帝国から賠償金(ばいしょうきん)を取ることができなかった。このことが、国民の不満に火をつけ、ポーツマス条約反対の焼きうちなどがおこった。だが、小村寿太郎は、このような状況の中で、ねばり強く話し合い、ロシア帝国から最大限の物を獲得していると考える。小村寿太郎のねばり強い態度を賞賛したい。