最澄 (さいちょう)
● 活やくした時代 767年~822年 平安時代(へいあんじだい)
● 活やくしたこと
767年 最澄(さいちょう)が近江国(おうみのくに 滋賀県)に生まれる。
幼名は三津首広野(みつのおびとひろの)という。
778年 最澄が出家し近江国(おうみのくに 滋賀県)の国分寺(こくぶんじ)に入る。
このとき、師の最寂(さいじゃく)の一字をもらい、最澄と名のる。
785年 正式な僧になるために東大寺で戒(かい)を受ける。
比叡山(ひえいざん)にこもり修行を積む。
788年 最澄は一乗止観院(いちじょうしかんいん 後の延暦寺 えんりゃくじ)を建てる。
最澄は厳しい修行の中で、鑑真(がんじん)が日本に伝えた天台宗(てんだいしゅう)の教えに心をうばわれる。
797年 最澄が桓武天皇(かんむてんのう)の内供奉(ないぐぶ 宮廷に使える僧)になる。
804年 最澄が空海(くうかい)とともに中国の唐(とう)に渡る。
最澄が中国の天台山(てんだいさん)に登り、多くの教典を手に入れる。
805年 最澄が帰国する。
最澄が桓武天皇の病気回復を祈る。
最澄が天台宗を開くことを許され、一乗止観院(いちじょうしかんいん 後の延暦寺)を天台宗の本拠とする。
812年 最澄が空海(くうかい)から密教(みっきょう)の教えを受ける。
816年 最澄が空海との親交をやめる。
最澄が群馬県や栃木県を回り、天台宗を広め伝える。
822年 病死(56才)
823年 一乗止観院(いちじょうしかんいん)が延暦寺(えんりゃくじ)と改名される。
866年 朝廷から伝教大師(でんぎょうだいし)の名前をおくられる。
● 人 物 評
最澄が活躍したころは、仏教が日本に伝わって、約200年がたつ。このころになると、仏教の教えを説く僧の中には道鏡(どうきょう)のように貴族や天皇にとりいって出世にのみ力をつくす者もあらわれた。そんな仏教の様子を見た最澄はいやけがさしていたのであろう。自分が新しい仏教を作ろうとした。当然、このような考え方は当時の僧から受け入れられるわけがなく、やがて当時の僧から反対をされることになった。だが、最澄が広めた「人は身分に関係なく仏になれる」という考え方は、民衆の間に広まり、やがて鎌倉時代にいろいろな宗派として花開くことになる。