伊藤博文 (いとう ひろぶみ)
● 活やくした時代 1841年~1909年
江戸~明治時代
● 活やくしたこと
1841年 長州藩(山口県)の農民の林十蔵(はやし じゅうぞう)の長男として生まれる。
14才のときに、足軽(あしがる 身分の低い武士)の伊藤家(いとうけ)の養子になる。
吉田松陰(よしだ しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で勉強にはげむ。
1863年 イギリスに留学する。
イギリスの軍備、産業、文化の発展ぶりにおどろく
1864年 四か国連合艦隊が下関(しものせき)を攻撃する。
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長州藩が負け、4か国となかなおりをする。
1866年 薩長同盟が結ばれる。
江戸幕府をたおすため、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)が同盟する。
1867年 大政奉還(たいせいほうかん)
江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
1871年 岩倉具視(いわくら ともみ)にしたがって、ヨーロッパに行く。
1874年 板垣退助(いたがき たいすけ)の自由民権運動がはじまる。
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議会を開くことを約束する。
1877年 西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争(せいなんせいそう)をおこす。
1881年 伊藤博文が明治政府の最高指導者になる。
ドイツ(プロシア)の君主制をまねて、プロシアの憲法を研究する。
1885年 伊藤博文が初代の内閣総理大臣になる。
伊藤博文らが憲法の案を考える。
1889年 大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が出される。
主権は天皇にある。
1890年 帝国議会が開かれる。(貴族院と衆議院)
1894年 日清戦争(にっしんせんそう)がはじまる。
朝鮮支配をめぐる日本と中国(清 しん)との戦い
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日本が勝つ。
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1895年 下関条約(しものせきじょうやく)が結ばれる。
1900年 立憲政友会(りっけんせいゆうかい)をつくる。
1904年 日露戦争(にちろせんそう)がはじまる。
朝鮮の支配をめぐる日本とロシアとの戦い
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1905年 ポーツマス条約が結ばれる。
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日本の朝鮮(ちょうせん)支配を認める。
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伊藤博文が初代韓国統監(しょだいかんこくとうかん)
(朝鮮の政治を行う最高の役職)になる。
1909年 満州(まんしゅう)のハルビンで暗殺される。(69才)
● 人 物 評
伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、日本の近代国家の土台をきづいたといえるであろう。維新(いしん)の三傑(さんけつ)である 西郷隆盛(さいごう たかもり)、大久保利通(おおくぼ としみち)、木戸孝允(きど たかよし)は、明治維新(めいじいしん)のゴタゴタの中で、戦死あるいは暗殺、病死し、明治政府はいまだ不安定であった。伊藤博文は、そんなよちよち歩きの明治政府が独り立ちできるように育てていったのである。伊藤博文の功績は、日本を外国とならぶ近代(軍事)国家に育てあげたことであろう。だが、それは、朝鮮(ちょうせん)を植民地としてぎせいにしてのことであった。日本は、この後、戦争への道へ進んでいくことになる。