道鏡 (どうきょう)
● 活やくした時代 ?年~772年 奈良時代
● 活やくしたこと
700年? このころ、河内国(かわちのくに 大阪府)志紀郡(しきぐん)弓削(ゆげ)で生まれる?
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも言われる。
葛城山(かつらぎさん)にこもって修行し、看病禅師(かんびょうぜんじ)として名をあげる。
東大寺(とうだいじ)に住むようになる。
761年 道鏡が近江国(おうみのくに 滋賀県)の保良宮(ほらのみや)で孝謙上皇(こうけんじょうこう)の病気を治療(ちりょう)する。
孝謙上皇(こうけんじょうこう)の病気を治したことで、上皇のお気に入りになる。
道鏡が政治に口を出すようになる。
権力者の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と対立するようになる。
764年 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は反乱を起こすが、失敗に終わる。
孝謙上皇(こうけんじょうこう)が再び即位して、称徳天皇(しょうとくてんのう)になる。
765年 道鏡が太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)になる。
766年 道鏡が法王(ほうおう)になる。
768年 弟の弓削清人(ゆげのきよひと)が太宰府の長官になる。
769年 「道鏡を天皇の位につけよ。」という神託(しんたく)がある。
和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐神宮(うさじんぐう)に派遣される。
【宇佐八幡(うさはちまん)の神託】
「道鏡を天皇にすれば、天下が太平になるであろう。」という神のお告げのため、朝廷は、和気清麻呂(わけのきよまろ)を正式な使者として宇佐神宮に派遣した。しかし、和気清麻呂が聞いてきたお告げは、「臣(家臣)をもって君(主君)とすることはこれまでにないことで、天皇には皇族がなる。」というものであった。これにより、道鏡は天皇になるという夢がたたれたことになる。和気清麻呂は道鏡の怒りを買い、流罪(るざい)にされたが、770年に道鏡が下野国(しもつけのくに)に流されると、呼びもどされ、朝廷で高い位についた。今では、はじめの神託は、道鏡や弟の弓削清人(ゆげのきよひと)によって、作り出された可能性が大きいとされる。
770年 称徳天皇(しょうとくてんのう)が亡くなる。
道鏡が下野国(しもつけのくに 栃木県)の薬師寺(やくしじ)の別当(べっとう)という地位に落とされ、流される。
772年 下野国(しもつけのくに)で死ぬ。
● 人 物 評
道鏡は、本当に病気を治す力を持っていたのかもしれない。ただ、その力を病気や貧困であえぐ民衆のために使うことをわすれ、孝謙上皇(こうけんじょうこう)に取り入って、自分が天皇になろうとした行為は感心できない。同時代の僧である行基(ぎょうき)とは大違いである。自分の能力や力を人のために使うか、自分のためだけに使うのか考えさせられる2人の人物である。