空海 (くうかい)
※ 弘法大師(こうぼうだいし)ともいう
● 活やくした時代 774年~835年 平安時代(へいあんじだい)
● 活やくしたこと
774年 讃岐国(さぬきのくに 香川県)の豪族(ごうぞく)の佐伯値田公(さえきのあたいたぎみ)の子として生まれる。
幼名を真魚(まお)という。
母方の叔父(おじ)の阿刀大足(あとのおおたり)のもとで孔子(こうし)の教えの儒教(じゅきょう)を学ぶ。
794年ころ 空海が京都に出て、数年間、役人になるために大学で学ぶ。
大学を出て役人になって、本当に苦しむ民衆を助けられるのか疑問を持つようになり、大学を途中でやめる。
空海が苦しむ民衆を助けるために仏教を選び、出家する。
797年 空海が三教指帰(さんごうしいき)を書く。
三教指帰(さんごうしいき)…儒教(じゅきょう)、道教(どうきょう)仏教の三教を比べた本
804年 空海が最澄(さいちょう)とともに中国の唐(とう)にわたる。
805年 空海が恵果(けいか)のもとで密教(みっきょう 真言宗のこと)を学ぶ。
806年 空海が、仏教だけでなく美術、工芸、医学などの知識をもって日本に帰国する。
810年 空海が嵯峨天皇(さがてんのう)に認められ、京都の高雄山(たかおさん)の神護寺(じんごじ)で鎮護国家(ちんごこっか)の祈りをおこなう。
空海は古い仏教の僧との対立をさけ、少しずつ自分の教えを広めていく。
古い仏教の改革に成功し、密教は朝廷から国を守り、民衆を救う仏教と認められる。
816年 空海が和歌山県の高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建てる。
高野山(こうやさん)の金剛峯寺(こんごうぶじ)を密教(みっきょう 真言宗)の本拠とする。
821年 空海が各地をまわり、苦しむ民衆とともに生き、救おうとした。
空海が香川県の満濃池(まんのういけ)をつくりなおす。
822年 空海が嵯峨天皇(さがてんのう)から東寺(とうじ)をたまわる。
828年 空海が綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を建てる。
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)…民衆がいろいろな学問を学びところ
835年 高野山で死去(62才)
921年 朝廷から弘法大師(こうぼうだいし)のおくり名を与えられる。
● 人 物 評
空海や最澄が活躍したころは、仏教が日本に伝わって、約200年がたつ。このころになると、仏教の教えを説く僧の中には道鏡(どうきょう)のように貴族や天皇にとりいって出世にのみ力をつくす者もあらわれた。そんな仏教の様子を見た空海や最澄はいやけがさしていたのであろう。そのため、自分が新しい仏教を作ろうとした。だが、空海と最澄はそのやり方がまったく違っていた。最澄は古い仏教に対決する態度をとったのに対し、空海は古い仏教と協調しながらも、古い仏教の考え方を変えていくという態度であった。結局、最澄はのけ者にされ、空海が受け入れられて仏教の改革が少しずつ成功することになる。ただ、目的は空海も最澄も仏教で民衆を助けることである。重税や病気で苦しむ民衆とともに生活し、苦しみをやわらげようとする二人の態度を尊敬する。