徳川家康 (とくがわ いえやす)
※ 松平元康 (まつだいら もとやす) ともいう
● 活やくした時代 1542年~1616年 室町~江戸時代
● 活やくしたこと
1542年 愛知県、岡崎城の松平広忠(まつだいら ひろただ)の子として生まれる。
青年になるまで、今川義元(いまがわ よしもと)の人質として苦労する。
成人すると、今川義元の家臣となる。
1560年 桶狭間(おけはざま)の戦い
織田信長(おだ のぶなが)に今川義元が討たれると、独立して静岡県の大名となる。
織田信長と同めいをする。
1572年 三方ケ原(みかたがはら)の戦い
山梨県の大名の武田信玄(たけだ しんげん)に敗れるが、信玄の病死で救われる。
1575年 長篠(ながしの)の戦い
山梨県の大名の武田勝頼(たけだ かつより)(信玄の子)を織田信長と共に鉄砲で
うちやぶる。
1579年 織田信長の命令で、長男 松平信康(まつだいら のぶやす)を殺す。
1582年 本能寺(ほんのうじ)の変
織田信長が家臣の明智光秀(あけち みつひで)の反乱で暗殺される。
1584年 小牧・長久手の戦い
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の家臣となる。
1590年 豊臣秀吉とともに関東の大名の北条氏(ほうじょうし)をほろぼす。
領地が東海地方から関東地方にうつる。江戸(えど)を本拠とする。
豊臣秀吉が全国を統一する。家康は五大老となり、秀吉に次ぐNO.2の大名になる。
1598年 秀吉の死後、秀吉の有力な家臣の石田三成(いしだ みつなり)と対立する。
1600年 関ヶ原(せきがはら)の戦い
石田三成と戦うが、実質的には豊臣VS徳川の戦いであった。
この戦いにより、家康が天下人となる。
【関ヶ原(せきがはら)の戦い】
豊臣秀吉の家臣の石田三成(いしだみつなり)と徳川家康
との勢力争い
「天下分け目の戦い」と言われる。
〈 西 軍 〉 対 〈 東 軍 〉
石田三成 徳川家康
毛利輝元 福島政則
小早川秀秋 黒田長政
小西行長 藤堂高虎
↓
勝 利
↓
1603年 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸(東京)に江戸幕府(えどばくふ)を開く。
1614年 大阪冬の陣
方広寺(ほうこうじ)のかねに「国家安康」(こっかあんこう)の文があり、家康の名を
分けてのろっていると言いがかりをつけ、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(秀吉の子)
と戦うが、しばらくして、なかなおりする。
【方広寺(ほうこうじ)のつり鐘事件】
豊臣秀頼が修理をしていた方広寺(ほうこうじ)のつり鐘
(がね)の文章が、徳川家康を呪(のろ)っているとされた事件
・ ・ ・ ・
国家安康 君臣豊楽
↑
家康の名前を分け、呪(のろ)っているとした。
1615年 大阪夏の陣
江戸幕府の命令にしたがわない豊臣秀頼をほろぼす。
2代将軍 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)の名で、
武家諸法度(ぶけしょはっと)(大名が守るべきルールやきまり)をだす。
1616年 死 去(73才)
● 人 物 評
徳川家康は「たぬきおやじ」とよく言われる。豊臣秀吉が生きている間は「秀吉さまさま」であったのに、その子の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)には、「国家安康」の言いがかりをつけて、ほろぼしたためである。だが、子どものときに、人質として苦労してきた家康は戦争のこわさと知っていて、自分の死後、戦争のない平和な時代にしたいという気持ちから豊臣氏をほろぼした考えられる。その証拠(しょうこ)に、これ以後、260年間戦争のない平和な時代が続くことになる。徳川家康の最大の功績は、戦争のない平和な時代をつくりあげた点であろう。