木戸孝允 (きど たかよし)
※ 桂小五郎(かつら こごろう)ともいう。
● 活やくした時代 1833年~1877年
江戸~明治時代
● 活やくしたこと
1833年 長州藩(ちょうしゅうはん 山口県)の医師の和田昌景(わだ まさかげ)の
子として生まれる。
1840年 桂家(かつらけ)の養子になる。
1849年 吉田松陰(よしだ しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で勉強にはげむ。
1852年~1853年 江戸で剣術や兵学を学ぶ。
1862年 長州藩の考え方を尊皇攘夷(そんのうじょうい)にする。
尊皇攘夷・・・天皇をたてて、外国を日本から打ち払おうとする考え方
幕府をたおす倒幕運動(とうばくうんどう)をおこす。
1864年 新撰組(しんせんぐみ)が池田屋をおそうが、木戸孝允はあやうくのがれる。
(池田屋事件)
こじきなどに変装(へんそう)をして、身をかくす。
1866年 西郷隆盛と会い、薩長同盟を結ぶ。
江戸幕府をたおすため、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)が同盟する
1867年 大政奉還(たいせいほうかん)
江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
王政復古を宣言する。
天皇中心の政治を行う。
1868年 木戸孝允の案で五箇条のご誓文(ごかじょうのごせいもん)を出す。
五箇条のご誓文・・・明治天皇が神に誓う形で、明治政府の政治方針をしめした。
1869年 版籍奉還(はんせきほうかん)を行う。
藩が支配してきた土地と人民を天皇にかえす。
1870年 木戸孝允が参議(さんぎ 政治を行う役職)になる。
1871年 廃藩置県(はいはんちけん)を行う。
藩をやめ、県ををおき、明治政府が任命した県令(けんれい)が
県の政治を行う。
1873年 地租改正(ちそかいせい)を行う。
藩に米を納めるのをやめて、土地所有者が明治政府に税金を納めるしくみ
にかえる。
西郷隆盛(さいごう たかもり)が征韓論(せいかんろん)をとなえる。
1877年 西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争(せいなんせいそう)をおこす。
1877年 病死する。(45才)
「西郷よ、もうたいていにせぬか。」という言葉を残して病死する。
● 人 物 評
維新の三傑(さんけつ)と呼ばれる西郷隆盛(さいごう たかもり)、大久保利通(おおくぼ としみち)、木戸孝允(きど たかよし)のうち、木戸孝允は三人のまとめ役的な存在であるといえるだろう。理性の大久保利通、情の西郷隆盛など個性のあふれる2人の間に立ち、二人の考えをまとめあげていき、明治政府の土台をつくりあげたといえるだろう。西郷隆盛の征韓論(せいかんろん)によって、この三人の関係はくずれるが、病死する直前の言葉「西郷よ、もうたいていにせぬか。」からも分かるように、最期まで西郷隆盛と大久保利通のことを心配していたことが分かる。木戸孝允というまとめ役がいたからこそ、大久保利通も西郷隆盛も自分の能力を十分に発揮することができたと言えるだろう。