「ごめんごめん」
と小谷先生は鉄三の家へかえってきた。鉄三はうす暗い家の中で、もくもくと字をかいていた。
「たくさんかけたわね。にくばえとひめいえばえがきれいじゃない。きょうはふたつはりかえましょう」
小谷先生は鉄三のために細長い紙を切ってやった。
「清書ね。よく見てていねいにかくのよ」
鉄三は、いっしょうけんめいかいている。
できあがったラベルをふたりではりかえていると、バクじいさんがかえってきた。
小谷先生の顔をみるなりいった。
「先生、わしのねがいをきいてくれませんか」
「なんですか、おじいさん」
「先生のつごうもきかないでわるいんじゃが、こんばん、いっしょにごはんをたべてくれませんか」
小谷先生の頭に、夫のふきげんな顔がうかんだ。が、小谷先生はできるだけすずしくいった。
「いいですわ、おじいさん」
「先生はお医者さんのひとり娘じゃそうだから、こんなきたないところで食事をするのはかなわんだろうけれど……」
「なにいってるのおじいさん。よろこんでごちそうになりますわ」
「鉄三、先生がいっしょにごはんをたべてくださると」
鉄三はべつだんうれしそうな顔もしなかった。
バクじいさんが食事のしたくをはじめたので小谷先生は声をかけた。
「おじいさん、手伝いましょうか」
「なになにきたないところだから……」
小谷先生はかまわず立っていった。
「このさかな、焼くのですか、だったら、わたし焼きます」
「それは舌ビラメですわいな。ムニエルにしましょうか」
小谷先生はおどろいてしまった。バクじいさんがムニエルということばを知っているだけでもびっくりものなのに、舌ビラメのムニエルとは——。
舌ビラメのムニエルはフランス料理のごちそうの一つである。バクじいさんの手もとを注意してみると、玉キャベツとかマッシュルームがおいてある。
「そのお肉はどうするんですか」
バクじいさんは牛肉にニンニクをすりこんでいた。
「これはストロガノフという料理に使うんですが、ま、名まえはややこしいが、ロシア風牛肉ケチャップ煮というところですかな」
小谷先生はますますおどろいてしまった。そんな料理、名まえもしらない。これでは手伝うどころか、バクじいさんにあらためて料理をならいたいぐらいだ。
「どうして、そんなむずかしい料理をたくさん知っているんですか」
「なあに、たいしたことはない。長いこと船にのっていたら、バカでもかってにおぼえますわい」
「お船にのっていらっしゃったんですか」
「そうですわい。外国の船にも日本の船にもなあ……」
そういって、バクじいさんは遠い眼をした。
しばらくしてできあがった料理は、けんらんごうかであった。舌ビラメのムニエル、マッシュルーム入りストロガノフ、ボルシチスープにシバエビのサラダといったあんばいで、どこかのレストランにいって食事をしているようだった。
「鉄三ちゃん、あなた、いつもこんなごちそうをたべているの」
眼を丸くして小谷先生はたずねた。
「いつもこういうぐあいにはいきませんわい。けんど、たべるものはだいたい、ちゃんとしたものをたべさせております」
どうりで鉄三は給食のときたいへんぎょうぎがいいわけだ。たべ残すこともないかわりに、よぶんにがつがつたべることもない。いまの子はなかなかそうはいかないので、小谷先生は鉄三のぎょうぎのよさが、とくに心に残っている。鉄三はじょうずにフォークやナイフを使って食事した。
「鉄三ちゃん、あなた外国にいってもこまらないわね」と小谷先生はいった。
バクじいさんにすすめられて、小谷先生もはしをつけた。
「うわァ、すごくおいしい」
小谷先生は、まんざらおせじをいっているようでもなさそうだ。
「先生いっぱいどうですか」
バクじいさんは、小谷先生にビールをすすめた。
「はい」——小谷先生はわるびれずにうけた。
「このごろの若いひとはビールくらいどうということはないんですやろ」
「大きいジョッキに二はい、飲んだことがあります」
小谷先生は不良少女みたいなことをいっている。
「ウハ、そりゃたいへんだ。こんばん、わしと飲みくらべをしましょう」
バクじいさんは、うれしそうにいった。
「美人のおしゃくでは、わしの方がさきに沈没してしまいますわい」
「おじいさんはお料理をつくるのもじょうずだけれど、おせじもじょうずですね」
「ウハハハ……」
バクじいさんは、ほんとうにたのしそうだ。
そんなバクじいさんの顔を見ていると、とてもいい顔をしている。ひとつひとつのしわが、まるできれいな絵のようだ。眼がとてもやさしい。西大寺の善財童子がとしをとったらこんな顔になるのかなァと小谷先生は思った。
「おじいさんは若いとき、美男子だったでしょう」
「ははは……先生は、わしにおかえしをしてくれますんやな」
「だって鉄三ちゃんでも、ほんとにいい顔してますもん」
「そうですかいのう」
バクじいさんはいっそう相《そう》好《ごう》をくずした。
鉄三は食事をすませて、さっそくハエの絵をかいている。
「先生にあのご本をいただいてから、ずっとこれですわい。だけど、わしゃうれしいです。ハエを飼うか、キチののみをとるかそんなことしかできんかった子が、絵をかいたり字をかいたりするようになってくれたんですもんなあ」
家の壁に、鉄三のかいたハエの絵がいっぱいはってある。
「鉄三ちゃん、もう、なん枚くらいになるかナ」
鉄三は眼をあげて壁の絵を見ている。それが小谷先生への返事なのだ。
「先生はおいくつですか」
バクじいさんは、とつぜん、そんなことをきいた。
「二十二歳ですけど……なぜ」
「二十二ですか、そうですか、二十二歳ですか」
バクじいさんはまた遠いところを見るような眼をした。
「二十二のとき、わしゃ朝鮮にいましたなあ」
「おじいさんは若いとき、朝鮮にいたんですか」
バクじいさんはそれにこたえず、しばらくぼんやりしていた。
「先生は友だちをうらぎったことがありますか」
ぽつんと、バクじいさんはいった。
「さあ、小さなことではあるかもしれないけど、いまはおぼえてないですわ」
「そうですか」
いつのまにかバクじいさんの顔からたのしげな表情が消えている。
「わしゃ、若いころ東京のW大学にいたんですわい」
また、小谷先生はびっくりした。
「親友がいましてな、いいやつでした。金龍生というて朝鮮の人間でした。わしの生涯のうち、あんなりっぱな男はほかにおりませんでしたわい」
バクじいさんは過ぎ去った昔を思い出して、眼をしばたたいた。
「そのころ朝鮮は日本の植民地でした。金は不幸な母国の歴史を勉強しとったです。そういうグループがあって、そこで自分の国のことを勉強しとったです。爆弾投げたわけやなし、人を殺したわけやなし、自分の国のことを勉強しておって牢《ろう》屋《や》に入れられるちゅうバカな話がありますか先生」
バクじいさんの顔は、苦しそうにゆがんだ。
「金龍生は牢屋に入れられましたわい。金と友だちやというだけで、わしも引っぱっていかれたです」
小谷先生は胸が痛くなった。
「拷問というのを知っておりますか先生、人間ちゅうもんは、どんなことでもするもんですな。悪魔になれといわれたら、はいというて悪魔にもなれるもんですな。金が勉強しておったグループのメンバーを言えといわれて拷問されましたわい。天井からつるされて竹刀でぶたれました。あんなことはサムライの時代のことかと思っとったら、なんのなんの。わしも若かったから、口ごたえしてやったら、半殺しにされましたわい。人間が人にさからえるのはつかのまのこと、それからつめと肉のあいだに千枚通しを入れられたり、熱湯をかけられたりして、身も心もぐにゃぐにゃにさせられてしもうたです」
からだがふるえてきて、それをとめるのに小谷先生は苦労をした。
「日本人だからそれくらいですんだんで、朝鮮人はもっとひどいときかされたもんやから、金のことを思って胸が痛んだです。がんばっておったら、金の母親がわしのところへきて、これいじょう拷問にたえていると命がなくなってしまうから、白状してくれと泣きつかれたです。龍生はどうしてもしゃべらないようだから、あんた、はいてくれ、そうして一年でも二年でも監獄にいってくれば、また自由の身になれるちゅうて泣くんですわい。そらそのとおりや、死んでしもたらなんにもならん、わしが受けた拷問を思うても、死ぬちゅうことは、じゅうぶん考えられる。それで、わしゃ白状しましたわい」
「それで金さんはたすかったのですか」
小谷先生はせきこんでたずねた。
「なんの」——バクじいさんは、ごくっとのどをならした。
「赤い絵の具のついたジャガイモみたいな顔して、ものいわんと家へかえってきたです。もういっしょにしゃべることもかなわん、いっしょに酒を飲むこともかなわん、いっしょにチェロをひくこともかなわんからだになって、だまってかえってきたです。金のおっかさんもえらいやつでしたわい。そのときは、もう一つぶも涙をこぼさんじゃった。あんたをうらまん、そのかわり龍生の分も生きてくれというて、わしを許してくれましたわい。わしゃ朝鮮の国と朝鮮の人を心から尊敬しておりますんじゃ。金と金のおっかさんを生んだ国ですもんなあ。そのころの日本というのは、朝鮮人というのを虫けら以下にあつかっておったけんど、わしゃ、ばかたれめ、いまに思いしらされるぞと、ひそかに思っとったです。金が死んでわしはもう学問をする気なんぞこれっぽちもなくなってしもうたです。金の魂にさそわれたのか、わしゃ朝鮮に行きましたわい。東洋拓殖会社というのが社員を募集しておったんで、なにをする会社かよう調べもせんと、ただ朝鮮に行ける、朝鮮で働ける、それだけで応募してしもたんです。そのとき、わしゃちょっとでも罪ほろぼしをせにゃならんと思うとったんでしょう」
小谷先生はからだをかたくしてきいていた。身一つ動かしてもわるいような気がした。
「わしはその会社の量地課というところにまわされたです。しばらくしてその課がなにをするところか、じきにわかったです。わしゃ日本人の悪ぢえにびっくりしたですわい。なんのことはない朝鮮人をごまかして、人の土地を自分のものにしてしまうちゅうことですわい。その当時、朝鮮の農民は字の読めん人が多かったですが、そういう人におっそろしくむずかしい申告書をかかせますんじゃ。あたりまえのことですけんど、ほとんどなにもかけませんわい。すると所有者不明白な土地ということにして、没収してしまいますんじゃ。そういう土地をタダみたいな値で払いさげてもらって、日本人の移民に売りつける仕事をその会社はやっとったわけですが、おしまいのころには、ごまかす方の仕事もひきうけてやっておったようです。わしゃ、からくりがわかると、むしろその会社にはいったことをよろこびました」
バクじいさんはそこでことばをきった。
「どうしてですか」と小谷先生はたずねた。
「わしゃ、すこしでも朝鮮人の味方をして、とりあげられる土地をすくなくしてやろうと思ったんですわい。けんど、それはあまい考えでしたわい。三カ月ほどして、わしゃ憲兵隊にしょっぴいていかれました。ほんとうにわしは神さまをのろいますじゃ。ほんの三カ月ほど朝鮮の人の味方をしたばっかりに、わしは朝鮮独立の運動をしている人を、二、三人知ってしまったんです。憲兵隊の拷問は警察のなん倍もなん倍もひどいもんですわい。先生のような若い女《ひと》がきいたら、きくだけで気絶してしまいますやろ。わしは恐ろしいだけでなしに、人にはいえんはずかしい拷問を受けたです。肉体より先に心がずたずたになってしもうたです」
バクじいさんはそのときの苦痛を思い出したのか、じっと眼をとじた。小谷先生は心の中でひめいをあげた。
「人間ちゅうもんは、ほんとうによわいもんですわい。わしはたった三日ともたんで、なにもかもしゃべってしもうたです。それから二日ほどして、わしゃ憲兵に自分のしゃべった結果を見せられました。さあ十二、三げんも家があったんでしょうか。後かたもなく焼きはらわれており、黒こげの死体があちこちにころがっておったです。小さな死体もありましたから、女、子どものようしゃなく、みな殺しだったんでありましょう。人間ちゅうもんはじき悪魔になれると、さっきいいましたが、あれはわしにいうたことなんですわい。その死体を見て、たいへんなことをしてしもたと思うより先に、これで自分の命がたすかると、吹き出てくるよろこびに身をまかせておったんですわい。わしは金にどういうてあやまればいいですか、金のおっかさんにどういうてあやまればいいですか」
バクじいさんは、じっと涙をこらえているようだった。
「人間ちゅうもんはいちどダメになると、あとは坂道をころがっていくようなもんです。だまっておればだれにもわかることやない、それからはおきまりの酒や女におぼれてしもうたです。あっちの船にのり、こっちの船にのりして、流れもんになってしまいましたわい」
おじいさん、そんなに自分をせめないで、だれだってそんな状態におかれたら、そうなってしまう、小谷先生は胸の中でつぶやいた。
「そんなひどいわしにも、神さまは平等にしあわせをくれましたわい。わしはおそい結婚をして、女の子がひとり生まれたです。大きくはないけれど、ちゃんとした船をもって小《しよう》豆《ど》島の石を神《こう》戸《べ》にはこぶ仕事をしておったです。べつに金もちじゃなかったですけんど、なにひとつ不自由のない生活でしたわい。娘は大きくなってムコをとりました。さいわいムコがわしの仕事を手伝ってくれたんで、それまでやとっていた男を独立させて、家族だけで船の仕事をしとりました。そのじぶんは、ばあさんは船にのらずに、生まれたばかりの娘の子どものもりをして、かわりに娘夫婦が船にのっとったです。ちょうどその日はばあさんが神戸に出るちゅうもんだから、赤ん坊をとなりの家にあずけて、一家四人で出航したんですわい。家島あたりまでよい天気だったのに、淡路島を見るころ、きゅうに天気がくずれたもんです。海の男ちゅうもんは天気には神経質なもんで、そういうスカタンはめったとやらんのですが、その日はどういうわけか、いかんかった。ずぼっと船は海に落ちたです。石を積んでおるもんだから、そういう感じになるんですわい。あっというまです。どうするひまもない。ムコは泳げたんですけんど海に落ちるとき、なにかで頭を打ったらしい」
小谷先生はそっと鉄三を見た。鉄三は無心に絵をかいている。
「昔の罪がこんなかたちになってかえってきたと思われるでしょうけんど、先生、それはちがいます。そんなことを思ったら金や、金のおっかさん、それから朝鮮の人たちにもうしわけない。うらみつらみでものを考えたら、わしは朝鮮の人のうらみつらみで、からだ中、穴だらけになっとりますわい。金のおっかさんがおまえの罪をゆるしてやるかわりに息子の分まで生きてくれというたです。いまここで性根を入れて生きんかったら、金龍生を三度までうらぎることになる、そう思って、わしゃ歯をくいしばったです」
あついものがこみあげてくるのを小谷先生は感じた。
「先生を泣かせてしもうてすまんです。飲みくらべをしようというとりましたのに、すまんことをしてしもうたですわい」
「いいえ」と小谷先生はいった。
「おじいさんの顔のきれいなのがよくわかります。おじいさんの眼がやさしいこともよくわかります」
バクじいさんは押入れから、大きな紙づつみを出してきた。ていねいにつつんである。
なかからチェロが出てきた。
「金龍生のチェロですわい。金もわしもチェロをひくのが大好きでした」
そういって、バクじいさんはいとしそうにチェロをなでた。
「いまでもおじいさんはチェロをひくんですか」
「いいや。ひきゃせん。もうじき金龍生とふたりでひきますんや。それまでこのチェロをとっておきますわい」
小谷先生は静かにうなずいた。