(一)
七日になりぬ。同じ湊(みなと)にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、かひなし。ただ波の白きのみぞ見ゆる。かかる間に、人の家の、池と名ある所より、鯉(こひ)はなくて鮒(ふな)よりはじめて、川のも海のも、他物(こともの)ども、長櫃(ながびつ)にになひ続けておこせたり。若菜ぞけふをば知らせたる。歌あり。その歌、
浅芽生(あさぢふ)の野べにしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり
いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃のものは、皆人、童(わらは)までにくれたれば、飽き満ちて、船子どもは腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海をさへ驚かして、波立てつべし。
(現代語訳)
七日になった。まだ同じ港にいる。今日は都の白馬(あおうま)の節会(せちえ)のことを思うものの、どうすることもできない。ただ波の白さばかりが見える。こうしている間に、ある人の家で、池という名の所から、鯉はないものの、鮒をはじめ、川の魚、海の魚ほかを、長櫃に入れて次々に担いで送ってきた。その中にあった若菜が、七種(ななくさ)の節句である今日という日を思い起こさせてくれる。歌が添えてある。その歌は、
<私どもの家は、短い茅萱(ちがや)が一面に生えた野にあり、地名は池ながら、水もない池で摘んだ若菜です。>
とても趣がある。この池というのは、地名だ。身分のある女性が夫に従って下向し、ここに住んだという。この長櫃の中のものは、全員、子どもにまでくれてやったので、飽きるほど食べ、船乗りたちは腹鼓を打ち、海をも驚かし、波を立ててしまいそうだ。