元日。なほ、同じ泊りなり。白散(びやくさん)をある者、「夜の間」とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹き慣らさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎(いもじ)・荒布(あらめ)も、歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ押鮎(おしあゆ)の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎もし思ふやうあらむや。「今日は都をのみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)のしりくべ縄(なは)のなよしの頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ」とぞ言ひあへなる。
(現代語訳)
元日。やはり同じ港である。白散(びゃくさん)をある者が、「一晩の間だから」と言って、船屋形に差し挟んでおいたのが、風に吹かれて海に落ちてしまい、飲むことができなくなってしまった。芋茎(ずいき)・荒布も、歯固めの品もない。これほどに物のない国(船のこと)なのだ。特に買い求めもしていない。ただ、押鮎の口ばかりを吸う。これらの吸う人々の口を、押鮎は何と思うであろうか。「今日は、都ばかり思われて仕方がない。小さな家の門にしめ縄として飾るぼらの頭や、ひいらぎなどは、今ごろどんなふうだろうか」と、みんな言い合っているようだ。
(注)白散 ・・・ 正月に飲む屠蘇(とそ)の類。長寿・厄除けの漢方薬で、温酒とともに服用する。
(注)芋茎 ・・・ サトイモの茎を乾燥させたもの。
(注)荒布 ・・・ 海藻の一種。
(注)歯固め ・・・ 正月三が日に、長寿を祈って大根、瓜、押鮎などを食べる行事。