二十九日(はつかあまりここぬか)。船いだして行く。うらうらと照りて、こぎ行く。爪(つめ)のいと長くなりにたるを見て、日を数ふれば、けふは子(ね)の日なりければ、切らず。正月(むつき)なれば、京の子の日のこと言ひいでて、「小松もがな」と言へど、海中(うみなか)なれば、かたしかし。ある女の書きていだせる歌、
おぼつかな今日は子の日かあまならば海松(うみまつ)をだに引かましものを
とぞ言へる。海にて子の日の歌にては、いかがあらむ。また、ある人のよめる歌、
今日なれど若菜も摘まず春日野(かすがの)のわがこぎ渡る浦になければ
かく言ひつつこぎ行く。おもしろき所に船を寄せて、「ここやいどこ」と問ひければ、「土佐の泊(とまり)」と言ひけり。昔、土佐といひける所に住みける女、この船に交じれりけり。そが言ひけらく、「昔、しばしありし所のなくひにぞあなる。あはれ」と言ひて、よめる歌、
年ごろを住みし所の名にし負へば来寄る波をもあはれとぞ見る
とぞ言へる。
(現代語訳)
二十九日。船を出して行く。日がうららかに照り、その中を漕ぎ行く。爪がとても長くなっているのを見て、日を数えたら、今日は子(ね)の日だったので切らない。正月であるので、京の子の日のことを言い出して、「小松がほしいなあ」と言うものの、海の中なので、できないことだ。ある女が書いて示した歌、
<気にかかりますね、今日は子の日なのでしょうか。もし私が海女(あま)だったなら、小松の代わりに海の松(みる)なりとも引いたでしょうに。>
と言った。海で詠んだ子の日の歌にしては、まずまずと思うがいかがだろう。また、ある人が詠んだ歌。
<子の日は今日だけど、小松を引かないばかりか若菜も摘まない。私が漕ぎ渡るこの浦には春日野がないので。>
このように言いつつ漕いで行く。風情のある場所に船を近づけて、「ここはどこか」と問えば、「土佐の泊」と言う。昔、土佐という所に住んでいた女が、この船に乗り込んでいた。その女が、「昔、しばらく住んでいた所と同じ名です。何となつかしい」と言って詠んだ歌、
<長年住んだ所と同じ名がついているので、寄せ来る波もしみじみと懐かしく見られる。>
と言った。