三十日(みそか)。雨風吹かず。海賊は、夜、歩きせざなりと聞きて、夜中ばかりに船をいだして、阿波(あは)の水門(みと)を渡る。夜中なれば、西東(にしひむがし)も見えず。男女(をとこをんな)、からく神仏(かみほとけ)を祈りて、この水門を渡りぬ。寅卯(とらう)の時ばかりに、沼島(ぬしま)といふ所を過ぎて多奈川(たなかは)といふ所を渡る。からく急ぎて、和泉(いづみ)のなだといふ所に至りぬ。今日、海に似たるものなし。神仏の恵みかうぶれるに似たり。今日、船に乗りし日より数ふれば、三十日余り九日(ここぬか)になりにけり。今は和泉の国に来ぬれば、海賊ものならず。
(現代語訳)
三十日。雨も降らず風も吹かない。海賊は夜は徘徊しないのだと聞いて、夜中に船を出して、阿波の水門(海峡)を渡った。夜中なので、西も東も分からない。男も女も、必死になって神仏に祈りながら、この海峡を渡った。日の出の一時間ほど前のころに沼島という所を過ぎて、多奈川という所を渡った。大急ぎで、和泉の灘という所にたどり着いた。今日は、海に波らしい波はない。神仏のお恵みがあったようだ。今日、船に乗った日から数えてみると、何と三十九日になってしまっている。今はもう和泉の国に来てしまったから、海賊など問題でない。